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今ここにいる人、になるために。

こんなのちっともたいしたことじゃない。

だって、世界には戦争で親を亡くしたり、飢えでガリガリに痩せて死んでしまう子供たちだってたくさんいるはずなのだから。

そう、何度も自分に言い聞かせながらも、どうしても耐えきれなくなった僕は、お昼休み、教室をひとり抜け出し、さらに校舎裏の塀を登って、学校からも抜け出した。

そして、学校の周りの閑静な住宅街をあてもなくさまよった。

いつもは何てことない街並みもなぜかこのときだけは少し優しく見えて、確かによく見ると、そこに住む人々の好きなものがところどころに散りばめられているのが分かった。

そんなハッピーモチーフたちに勝手に励まされた僕は、お昼休みが終わる頃には、少し気持ちも前向きになって、元来た塀を飛び越えて、おそらく僕がいなくなった事にすら気づいてない同級生たちが待つ教室に戻ったのだった。

そんなまさに

15、16、17と私の人生暗かった

という、かつて宇多田ヒカルの母親が歌っていたヒット歌謡曲のサビの歌詞みたいな

ぼっち青春時代を過ごしていた僕は、実は今までずっと大きな思い違いをしていたのかもしれない。

そう、あの頃の僕は、

世界が僕を拒絶した

と決めつけていたけど、本当のところ

拒絶していたのは

世界ではなく

僕の方だったのだ。

確かに、僕のひどい吃りや挙動不審な行動を馬鹿にしてからかう同級生は何人かいたけれど、みんなにされていた訳ではなかった。

でも、僕は、クラスメイト全員がこんな自分のことを馬鹿にして除け者にしているって勝手に思い込んでいたのだ。

あのハッピーモチーフのように、本当はひとりひとり好きなものが違うこの世に一人だけのかけがえのない人間だという当たり前に気づかずに、それを確かめる努力すら怠っていたくせに、

僕はいつしかクラスメイトを丸ごと僕の存在を否定する敵だと見做していたのだった。

なんて、過去形で語っているけれど、実は今の僕だって、あの頃とたいして変わっていないのかもしれない。

なぜなら、他者から拒絶のリアクションを受ける(受けたと思う)たびに、あの頃の身を切るような冷たく荒涼とした光景が自動再生され、気づいたらあの時と同じく僕は自分vs.世界という対立軸を自らの心に構築してしまっているからだ。

でも、あの頃と違うのは、今の僕はもうぼっちではないということだ。

そう、目をつむれば、自然とその人の笑顔が思い浮かんで心がポカポカと温かくなる人たちが(決して数は多くないけれど)今の僕には確かにいる。

にも関わらず、相変わらずふとしたキッカケで見るもの触れるもの全てが敵と化し、そんな大切な人までをも拒絶し傷つけてしまう、という僕の悪癖はなかなか改まらないままだった。

それはたぶん心のどこかで、ずっと自分は間違っていないと思っていたからだろう。

しかし、昨晩、夜中にふと目を覚ますと、僕の枕元にはあのアントニオ猪木氏が正座していて、僕が上半身を起こすなり、あの伝説のビンタを一発、僕の左頬に喰らわしたのだった。

バシーン!

あまりの痛さに気絶しそうになりながら、このとき僕は初めて

自分は間違っていた

ということを悟ったのだった。

ところで、先ほど僕は藤圭子の「夢は夜開く」の歌詞みたいな青春時代を過ごしたと話したけど、実際の当時の僕のテーマソングは、

The Beatlesの

その名もずばり

「ひとりぼっちのあいつ」

だった。

ある深夜ラジオで僕はこの曲を初めて知るのだけど、その番組のパーソナリティを務めていた杉真理さん(生粋のビートルマニア)が、この歌の原題である

No Where Man(どこにもいない人)

その綴りの位置をほんの少し変えるだけで

Now Here Man(今ここにいる人)

になり全く正反対の意味の言葉に早変わりするという、ジョンレノンの天才詩人ぶりを示すエピソードを教えてくれたときに、僕はなんとも形容し難い深い感銘を受けたのだった。

そして、それ以来、僕は、ずっと心のどこかで

Now Here Man(今ここにいる人)

になることを目指して生きてきたような気がする。

でも、ここでも僕は大きな思い違いを犯していた。

なぜなら

Now Here Man(今ここにいる人)

になるために、僕はひたすら自分の能力やスキルを高めることに専心してきたけど、やればやるほどむしろ孤立感を深めていったからだ。

確かにいつしか僕は心のどこかで他人を見下すとても底意地の悪い人間に成り果てていた。

そんな挫折を経て、僕は今、こんな風に考えるようになっている。

僕が

Now Here Man(今ここにいる人)

になるために何よりも心血を注ぐべきこと

それは、決して自分自身をどうこうすることではなくて、

まずは自分の目の前にいる人たち一人一人としっかり向き合い、丁寧なコミュニケーションを重ねること以外ないのだ。

でも、それをちゃんとすれば、必然的に

それぞれ異なる個性やキャラクターを持った

Now Here Men(今ここにいる人たち)

が僕の前に現出するだろう。

そして、やがて僕はその人たちの笑顔や喜ぶ姿の中に、

揺るぎない自分の姿を認めて、

その時初めて、

自分vs.世界

というあの幻影が消え

僕自身も晴れて

Now Here Man(今ここにいる人)

になる

のではないだろうか。

それって今までほとんどやったことがない所業だから、きっと気が遠くなるような時間がかかるはずだけど、

今までこんな僕と出会ってくれた人達への感謝の気持ちを決して忘れることなく、

いつの日かこんな僕にもそんな日が訪れることを夢見ながら、僕は自分の両足が踏みしめてきたこの曲がりくねった長い道の先をこれからもガシガシと力強い足取りで歩き続けていくだろう。

追伸

この数日間、諸般の事情で精神的にかなり落ちていたため、コメント欄を閉鎖しておりましたが、今回から復活いたします。みなさま改めてこれからもよろしくお願いいたします。

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