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読書苦手人間の自分に課題図書を課してみた


こんにちは。
今日は「読書」について書きます。
ちょっと長いですが読んでいただけると嬉しいです。



文学部が輩出した読書苦手人間の私が、最近は隙間時間にちょこちょこ本を読んでいる。

以前の記事(※)で書いた「世界のエリートが学んでいる教養書必読100冊を1冊にまとめてみた」(永井孝尚、KADOKAWA。以下「100冊」という。なお、まだ読み終わっていない。)を読む中で、原著を読んでみたいなぁと思った本があった。
とはいえまだ100冊読みきってないしとりあえずこれを読み終わってから挑戦してみようかな、と思っていた。

(※)



だけど昨日、なんか突然「あ、今読みたいわ。借りに行こう。」て思い立って、突然図書館へ繰り出した。

そこで借りてきたのがこちら!!




エマニュエル・レヴィナス
の「全体性と無限」(藤岡俊博訳、講談社学術文庫)です!!

正直100冊を読むまでレヴィナスさんもこの本の名前も聞いたことなかった(ごめんなさい!!!)。

数ある名著の中でこれが読みたいと思ったわけは…

「私たちは他者を理解できない」が出発点

まずは「あの人はこんな人」と決めつけず、「本当は、自分は他者を理解できていない」と考え、対話を通して他者を理解しようと努力し、相手に責任を持つことが第一歩だ。

100冊


ちょうど100冊を読んでた時、私には好きな人がいて、その恋がうまくいかなくてもやもやしていた。
最初は私に気がありそうな感じだったのに徐々に連絡が遅くなっていって、会おうと言ってもやんわりと躱されて気付いたら返事が来なくなって、私の前からいなくなっていた。

他人の気持ちなんてどうにもできないし人の心なんて理解できないなんてことはわかっていたから、私から離れていく人に執着していても意味がないと言い聞かせていたけど、でもやっぱり「あの人と向き合いたい、全部を理解することはできないけど、あの人を一番いい形で支えるためにあの人の気持ちを少しでも理解しようとする努力をしたい。」と思ってしまっていた。

安直だけどそういう気分の時にこの本のことを知ったから、「あ、なんかこれ読みたい。」と思ったんだよね。


とはいえ原著なんて読書苦手かつ教養が人一倍ない私にはまだ早すぎると思っていたんだけど、なんか知らんけど朝起きたら読みたい衝動に駆られた(笑)ので、最近ちょっと元気だし桜見るついでにお散歩がてら図書館に行こうかな~って思って。

図書館2か所回って本借りてタイ料理のお店でタイラーメンとミニガパオライスのセットを食べてからゆっくり散歩しながら帰宅して、読んだものの内容を忘れかけていた100冊の「全体性と無限」の要約を再度読んだら、まさかのこんなことが書いてあった…!

本書はレヴィナスが自身の「他者論」をまとめて1961年に刊行されたものだが、実に難解である。

100冊(強調はぽによる)


やっちまった。

私が「実に難解」な本読めるわけないじゃん~~~😭


なのでいつ離脱するかわからないけど、せっかくそういう気分になったのだし、入門書と行ったり来たりしながらでもいいから、この気持ちが持続する限りは読もうかな。

(図書館の返却期限までに読み終わるとは到底思えないが、なんかもういいや、最初だし怖いもの見たさもあるし何回も借りて何回も読もう(涙目の笑みを浮かべながら))



とはいえ図書館でパラパラめくってみて、なんとなく難解そうな雰囲気を感じ取ったのか、ちょっと私一人の力では到底読み切れない、と悟ったようで、noteに何かヒントは隠されていないか!?と思って検索した。そうしたらまさかのヒットした!

こちらの方のnoteも読ませていただこうと思っています。
なんと、同じく「全体性と無限」を現在読まれている方がいらっしゃいました!

ぬまさまの記事を少し読ませていただいただけでも、ぬまさまの知識量や文章力や思考の奥深さに圧倒されました。
そんな方の文章を私なんかが理解できるのか?という不安もありますが、同じタイミングで同じ本を読まれていることが驚きだったので、何かのご縁と思い、勝手ながら読み進める時のご参考とさせていただきたいと思っております…!!

————

この本に限らず文学の解釈は人それぞれだと思うが、特にこの「全体性と無限」は難解が故に多様な解釈が存在するらしい。
100冊でも、内田樹氏の著書「レヴィナスと愛の現象学」を引用してそう述べられている。

私には私の解釈があってもいいのかな、何回か読んだら違った見え方がするのかな、とそんな側面からもおもしろそうだなと希望を膨らませてみた。
まぁ私の場合、「解釈」の領域まで辿り着けるか怪しいのだけど…




ところで、何度も言うが私は「読書が苦手」だ。

私が読書を苦手としている要因の一つに、「興味関心があちこちに行っちゃって持続しない」というのがある。
まさに昨日みたいに、急に「これ読みたい!」と思うとすぐに図書館に行ったりAmazonでぽちったりして行動に移すんだけど、読んでいる途中に別の「〜したい!」いう衝動に駆られると、そっちに目移りして手元にあるものを手放しちゃう。

今までにもそういうことが多々あった。というかそういう経験が私に読書の苦手意識を植え付けた。
統計や計量経済学が分かれば仕事にちょっとは役立つんじゃないか!?と思って統計ゼミの友達からおすすめを教えてもらって即買いしたり、来年の大河ドラマは◯◯らしいよと聞いたら「基礎知識入れておきたい!」と思って図書館でその人関連の本を借りたり、ある日突然「私は世界経済はおろか日本経済のことも何も知らない」と自分の無知を恥じて経済学部出身の弟から「この本面白そうだからちょうだい」と日本経済史の本を貰ったりして、衝動的に本を手にしてきた。

いつもその瞬間は「読みたい」という気持ちがブチあがっているのだが、そういう衝動が頻繁にありすぎて、しかもその衝動は一時的であまりにも浅いから、結局全部中途半端になって何も得られない。

だから「読みたい!」という気持ちがあるうちに一気に読んじゃえばいいんだけど、そもそも私は集中力が持続しない人間なので、すぐにTwitter(X)をいじったりアニメを見たり寝転がって意識飛ばしたり最近だったらnoteをのぞいたりして、どこかに行ってしまってなかなか戻ってこない。
ただでさえ平日仕事で拘束時間長くて読書に充てられる時間が少ないのにさ。


そんなこんなで私の部屋やkindleには最初の数十ページだけ読んでそのまま放置された本たちが無残に散らばっている。

完読できない —— そういう経験が多すぎて、「ああ、また読み切らないまま終わって何も理解しないで時間だけ無駄にするのかな…」という気持ちを抱えて、読書に対して申し訳なさと苦手意識を持っている。


私は1冊の本を完読することを目的にしていたが、それが良くなかったのかもしれない。
だから最近は無理に1冊を読み切ることにこだわらず、複数の本を並行して読みたいときに読んでいる。



さて、並行して先週くらいから通勤時間でちまちま読んでいるのはこちら↓↓↓

亀田俊和著の「観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い」(中公新書)。

以前記事で書いたように、自発的に購入したものの中身を全く咀嚼できていない本だ。
というか、過去ちゃんと読んだのかさえ怪しい、たぶん読み切ってない。
通勤時間にしか読んでないからほんとに毎日数ページずつのペースだが、幸い日本中世史は結構好きなので、まだかろうじて読み続けている。
それにしても日本史はむずいね。登場人物多すぎね。「あれ?君誰だっけ?」が続出して正直ついていけてない。
まあ日本中世史に関しては今後もなんだかんだずっと興味はあるだろうから何度も読むこと前提なので…まずは一回読んで大枠理解しような私…。


(余談)
図書館で帰り際に「文書館のしごと」(新井浩文著、吉川弘文館)という本を見かけて「気になるうううううう!!!」と思った。
いつか必ずや…!




というわけで脈絡なくいろいろ書いたけど、今私の目の前には、まぎれもなく「読みたい!」と思う本がある。
苦手意識こそあるものの、あまり気負わず読みたい本を読んでいこうと思う。読んでいく中で何か吸収できたらうれしいな。

とはいえせっかく時間を取るなら読みきりたい…できれば理解しながら読みたい…なのでちょっと厳しめに「課題図書」と言ってみました

読むの楽しみ。






読もう!と意気込んでいたのに、いつの間にかnoteに熱中していました。
そしていつもどおりとっ散らかった内容で。

ありゃりゃ。


ありがとうございました。





p.s.

他人の気持ちなんてどうにもできないし人の心なんて理解できないなんてことはわかっていたから、私から離れていく人に執着していても意味がないと言い聞かせていたけど、でもやっぱり「あの人と向き合いたい、全部を理解することはできないけど、あの人を一番いい形で支えるためにあの人の気持ちを少しでも理解しようとする努力をしたい。」と思ってしまっていた。


「全体性と無限」を読み終わる頃にまた、彼へのこの気持ちに向き合ってみようかなと思う。




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