(短編小説)色
男がまだ暗い朝に墨汁で濡れたティッシュを噛もうとしている。ボトルからブチュブチュと青い透明な皿を汚すように液体を出して、ティッシュを浸したらもうどうしようもないくらい真っ黒に濡れてしまう。そのまま垂れないように口の中に入れるとなにもしなくても墨汁が喉の方に流れ落ちてくるので、飲み込むためにそっと口を閉じる動きをする。たちまちティッシュの繊維が圧縮され、すこしの刺激で大量の汁が噴出する。鉄のような味。今度はしっかり噛むとテュッシュの繊維が噛みきれないまま口の裏に張り付く。 歯についた黒いしみはなかなか取れない。鏡を見ると毎回そう思う。歯ブラシは数回でダメになる。デンタルフロスをすると歯茎から赤い血が滲む。墨汁と混ざって美しいマーブル模様を作った。男はそれを汚いと思う。
「白い靴下だと下に肌の色が透けて見えるね」
「きっと破れそうなんだね。また買い替えないと」
女の顔には西の窓から光が差している。男はさっきから今週この女の肌に一度でも触れたのかどうか思い出すことができない。しばらく考えて今朝洗いたての皿を手渡す指が自分の指に触れたことを思い出す。そして今週の金曜、つまり六日前に同じ布団で寝ていたことにも気づく。
「じゃあ、行くね」
靴を履き終えた女が玄関のドアを開ける。男の頭にはなおも靴下から透ける彼女の肌の色が焼き付いたままだ。男が手を振る。彼女も手を振った後、部屋から出ていく。伸び切った靴下のように午前中が続こうとしている。
彼女はチター教室に行ったのだ、と男は思う。チターという楽器がどんなものなのか男は知らない。それでもチターを演奏している女の姿を懸命に思い浮かべようとする。女は腰掛けながら安らかな表情をして、自分の体と同じくらいの大きさの弦楽器を弾いている。男は思い立ったように箪笥の上のCDプレイヤーに視線を送る。
リモコンの再生ボタンを押すと音楽がかかる。ベートーベンの田園交響曲によく似ている。実際にはなにかわからないが、緑色の印象を受ける。
(音楽)
フローリングに黄色い液体がこぼれていることに気づく。水で溶いた絵の具のように鮮やかな発色をしているが、いったいこれが何なのか男には検討もつかない。クローゼットからもう着ていないシャツを取り出してきて、そっと液体の上に置く。白い生地に黄色い染みが広がって、丸い形を作る。床を吹き終わると、いつの間にか手についていた黄色い液体も拭い去る。布と肌がこすれ、拭いた場所が少し赤くなる。服をゴミ箱に入れると、男は初めて女の黒い肌に触れた時のことを思い出す。それは墨汁の黒とは明らかに違っている。黒というよりはブラウンだが、彼女自身はブラックだと言う。
音楽が耳障りになって、再生を止める。
キッチンでコップに水を注いで一気に飲み干す。口を拭うと手に黒い汚れが付着している。もう一度蛇口を捻り手を洗う。うがいもして手で口を拭うとまた黒く汚れている。鏡を確認したが口の中は汚れていない。
諦めてリビングに戻ると机の上に青いハンカチが乗っている。男のものではない。きっと彼女の忘れものだ。男はその濃い青色のハンカチを折りたたんでテーブルの端にどかした。
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