日常アニメについて語る(「邪神ちゃんドロップキック」や「のんのんびより」)
この度、私はアニメのとあるカルチャーについて論じる。それは「日常系アニメ」カルチャーである。さらに、日常系アニメの中での作品群の性質の違いを軸としたいために、『邪神ちゃんドロップキック』と『のんのんびより』という性格の違う2つの作品を代表的に挙げ、これらへの考察を通して、「そもそも日常系アニメとは何か」、「なぜアニメオタク(アニメ愛好家の俗称)は日常系アニメに没頭するのか」など、様々な事柄を論じていく。先に注意しておくが、本文章では障りなくアニメについて論じたいために、ネタバレ(物語の重要な仕掛けや結末などを晒すこと)を避けることは意識していない。予めご了承願いたい。
最初に、言葉の定義付けについて意識を統一していきたい。日常系アニメと簡単に比較できるのは「ファンタジーアニメ」であり、例えば「ガンダム」シリーズや『メイドインアビス』といった作品から分かるように、主に今我々の住む地球上では実体験が不可能な、想像上の力が働く世界が舞台となっているアニメを指す。"フィクション"といえば、まさにこのようなジャンルを想起する人が多いであろう。現状の科学では、人の乗るロボットが空を飛び交って闘うなどできないのは想像に容易い。また、日常系アニメとの区別として強調しておきたい"シリアスさ"は非常に濃い。これは後に説明する。
ファンタジーに対し、「日常系アニメ」というのは、原則として舞台はこの地球上のどこか、つまり大体は日本だし、魔法やバトルといった要素は排除されがちで、"シリアスさ"は薄く、起伏のあまりない、ゆるい雰囲気の内容のものを指す。有名なものは、"女子高生が何かをやる"タイプのものであり、キャンプをする『ゆるキャン△』、バンドをする『けいおん!』、またDIYをする『Do It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-』などがそれに当たる。どれも、我々が現実で行いうることを女子高生がしているに過ぎない内容である(かといって"ノンフィクション"とは言えず、これらも勿論"フィクション"である)。今回注視する『のんのんびより』は小学生から大人まで色んな年齢層のキャラクターが登場するし、また『邪神ちゃんドロップキック』はこれまた例外的に、"魔界の生物"が主軸のためにこのタイプには当たらない。
それでは、「シリアスさ」とはなんであろうか。辞書的にいえば「真剣」とか「まじめ」なのであるが、わかりやすいのは、人の生死に関する描写の態様であろう。ファンタジーアニメでは、多くのキャラクターが死んでしまうものも多く、死にはしなくても負傷の描写があるなど、作品のシリアスさというのはそういう部分から読み取れる。そんな残酷な描写を待ち望み、そして衝撃を受け、悲しむことで作品に没頭することがオタクの立ち振る舞いとして典型的である。
それに対し日常系アニメは違う。大抵人は死なないし、負傷をしても血をありのままに作画することは原則としてありえない。日常系を見るオタクは癒しを求め、癒されることで作品に没頭するのであり、仮に人が死んで血が飛び交うようなグロテスクなシーンがあったのなら、インターネット上では"日常系を騙った何か"という別ジャンルのものとして話題を呼び、オタクの姿勢は、1度そのような描写があった影響で"次の衝撃"はいつくるのか、と待ち望むものに変わってしまう。つまり、日常系アニメの定義に入るべきものに、そのようなシーンは1度たりともあってはならないし、さらに言えば、それを想起させるような描写すら一切排除しなければならないということである。このような裏切りを実際に行うアニメも存在し、『魔法少女まどか☆マギカ』や『がっこうぐらし!』は代表的である。
ここで、本題である2つの作品の説明に入ろう。『のんのんびより』は、とある日本の田舎に住む子供たちの生活の様子を、そのタイトルの通り、コミカルにのんびりと描写する作品である。見ていて癒されるような田舎の景色、子供たちの言動や音楽などが調和されてその癒される雰囲気を形作っており、まさに日常系アニメの筆頭と言える。そして、ギャグシーン(コミカルで笑える描写)が多く、むしろギャグシーンがなければこの作品は成立していないと言える。オタクは、この作品に癒されるだけでなく、笑うことでも没頭する。これも大切なことなのだが、「日常系」だからとはいえまるで現実を写し取ったかのようにただ平坦な日常を映すだけではおかしい。そんな作品は相当センスの尖った作品として、これまた日常系の枠を越えた特殊な何か、として見られることになってしまう。そのため、ほぼ全ての日常系アニメはギャグシーンを多く散りばめながら話を進めていく。これは『邪神ちゃんドロップキック』も同じだし、あえて言えば『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』といった国民的アニメでも同じである。(この2つが日常系アニメかどうかにつき議論の余地はある。)
アニメ『のんのんびより』には、シリアスさを底上げする、つまり日常系を騙ってオタクを裏切るような描写は一切なかった。それは一見当たり前のことであるが、先述した『がっこうぐらし!』のように、一見すると日常系に見えて不穏な要素が散りばめられており、その後の展開でそれらがまとめて伏線回収のような形で裏切りとして現れる、という作品は確かに存在し、例外的で少数の形だとはいえ、『のんのんびより』もそうである可能性は放送当時否定できなかったはずである。ここに、オタクの信用というものがある。疑い深い視線でアニメを見ていては、何事も全力では楽しめない。あくまで日常系に見えるものは日常系なのだと信用するのであり、仮にその信用が裏切られたとしてもその衝撃の大きさからオタクは没頭するし、裏切りがなかったとしても、元の通りに日常系として没頭するのみである。
続いて、『邪神ちゃんドロップキック』を簡単に説明する。この度この作品を取り上げたのは、先程の「日常系アニメ」の定義付けに関する原則を裏切りながらも、人々に日常系だと思わせる特殊な作品だからであり、『のんのんびより』との対比に適切だったからである。この作品は、大学生の「花園ゆりね」が魔界から「邪神ちゃん」という悪魔を自分の部屋に召喚したが、邪神ちゃんが再び魔界に帰る方法は召喚者を殺すことと判明したために、自宅に一緒に住まう関係でありながらゆりねを幾度も殺そうとし、その都度返り討ちにされてしまう、といった内容のものである。毎話で邪神ちゃんが体を切り刻まれたり、真っ二つにされる、といったグロテスクな描写が存在する。しかし、私含め多くのオタクは、この作品をシリアスなものだとは考えず、日常系として気軽に嗜んでいる。ここに、面白い事実があるのだ。
なぜ我々はこの作品を日常系として見られるのであろうか。「悪魔」というファンタジー的な存在が主軸だし、キャラクター達はバトルをよく繰り広げる。そして、「邪神ちゃん再生能力がとても高い」という設定のもと、毎話で非常に残酷な攻撃を受ける。一見、日常系に対する裏切りの要素ばかりに見えるのだが、ここで大切なのは、本来的には残酷な描写でも、その表現次第で人はコミカルに受け取りうる、という点である。例えば、1つのとあるシーンをとっても、流れるBGM、作画のタッチや台詞回しなど、様々な要素が絡みあってやっとそのシーンの様態を映し出す。仮に、同じ「怪我をするシーン」だとしても、コミカルなBGMに、明るいタッチで描かれてしまえば、それを深刻なものとして暗く描写するのとは違い、むしろ面白いシーンだとさえ思われることとなる。『邪神ちゃんドロップキック』はそれを徹底した。一度でもオタクがグロテスクさを不穏なものとして捉えてしまった場合、そのたった一度きりの情動がその後の鑑賞に強く影響してしまう。一見残酷な描写でも、必ず残酷に見せてはならないのである。こうして、この作品はその特殊な性質を持ち合わせながらも日常系アニメとして定着することとなり、オタクは、グロテスクな描写のコミカルさや、日常系の原則通りの、かわいいキャラクターのゆるい掛け合いなどを通して、笑ったり癒されたりすることで没頭している。ここで、2作品のギャグシーンの性質を比べると、『邪神ちゃんドロップキック』の方がギャグシーンの頻度が高く、他作品のパロディやセクシーな描写など、フットワークの軽いものが多い。そのグロテスクさと均衡を図るためには、このようにコミカルな部分を色濃くする必要があるということである。
2つの作品を比べると、おなじ日常系でありながら内容はかなり違いがあるというのに、オタクの没頭の仕方は同じものだとわかった。一口に日常系アニメと言っても、全てが似たような作品では当然飽きられてしまう。この2作品の性格の違いが示すように、日常系だと認識させた上でオタクを惹きつけるために、広く自由なアプローチが可能になっているとわかる。ここから、さらに2つの作品に共通する部分について触れていこうと思う。
まず、日常系アニメと「聖地巡礼」の親和性の高さについて述べる。聖地とは、アニメの舞台として使われた、現実に存在する場所のことであり、オタクはそこに足を運ぶことでアニメの舞台に自分も乗った気持ちになることで"巡礼"をする。これは「アニメツーリズム」とも呼ばれるが、アニメを楽しむ方法はただ視聴するだけには収まらず、観光をしたりグッズを買ったりするなど様々な振興に繋げられるということである。むしろアニメを制作する側は、人気を維持するためにはその作品をただ視聴するだけに"収められない"とも言える。アニメという文化がただ視聴するだけのものだった場合、嗜好する方法が単純すぎて飽きがくると思われるし、儲けを求める製作会社にとっても、アニメから利益を出すためには動画配信サービスでの視聴や、アニメを収録したDVDなどの売り上げに頼る以外なくなる。そこで、観光と結びつけて様々な商売につなげるのである。
のんのんびよりの場合、映画版『のんのんびより ばけーしょん!』は沖縄が舞台となっており、シュノーケリングやカヌーなど、沖縄らしいことをする場面が豊富である。『邪神ちゃんドロップキック』の場合はもっと顕著で、ふるさと納税編という回が存在し、アニメの1つの話がふるさと納税を軸として自治体と連携した形で作られており、その内容も、その市の宣伝が主となっている。ファンタジーアニメやSFアニメの場合でも、「聖地」は存在する場合があるが、その扱われ方は日常系とは違う。例えば『君の名は。』の場合、東京の各所が舞台とはなるものの、その場所を宣伝するような内容は存在せず、あくまでキャラクターの移動する背景として描かれるに過ぎない。ストーリーの主軸は、"2人の登場人物の人格の入れ替わり"といった全く別のところにある。『STEINS;GATE』というSFアニメにおいても、東京の秋葉原が舞台でありながら、それはあくまで背景として描かれることに徹し、主軸はタイムリープ(過去や未来に移動すること)である。
これに対し、のんのんびよりや邪神ちゃんドロップキックは先述したように、その地域に特有のアウトドアアクティビティを登場人物たちが行う様子が映像の多くを占める。これを可能にするのは、まさしく、そのアニメが「日常系アニメ」だからである。日常系アニメを見るオタクはそのようなシーンを求めているのであり、そのことを分かっている制作側の脚本家や監督などはしっかりとそれを描写する。ファンタジーやSFだった場合、もし舞台が日本の場所であろうと、そのような"現実"を背景として描きながら"非現実"的な何かが巻き起こる、というストーリーの要素がフィクションとしての大きな魅力になるのであり、「郷土料理を食べる」というような場面が悠長に描かれているのでは退屈に見えてしまうだろう。決して郷土料理を食べるシーンを長々と映すこと自体は悪いとは決め付けられないのだが、その作品のジャンルが何であるか、オタクはその作品に何を求めているかなどという要素によって、そのシーンの評価が変わってしまうのである。
このように、オタクがそれを求めているという理由から、日常系アニメは聖地をあくまで背景として描くだけに収めるのではなく、その地域特有のアクティビティや食べ物なども多く描けるのであり、それゆえに聖地巡礼との親和性が高いのだと分かった。
しかし、注意しなくてはならないのは、それらのシーンに登場するのは主人公やその仲間など、普段からレギュラーで登場しているメインキャラクターでなくては、オタクに聖地巡礼させる効果は強く薄まってしまうという点である。映画の『のんのんびより ばけーしょん!』を例にとれば、この映画に登場するキャラクターはほとんどが前作のテレビ版(1話が25分程度で構成された12話1クールのもの)で登場していた人物らであり、この映画のみで新たに登場するメインキャラクターは1人だけである。前作と同じキャラクターが登場する、というのは当たり前にも聞こえるが、実はこれは簡単に収めて良い話ではない。我々がアニメの聖地を巡礼したくなる理由とは、登場キャラクターや、彼らが動き回る舞台、そして背景などが作り出す繊細な空気感に由来する。アニメを視聴しながらその空気感に触れ続けることで、作品に関わる様々な事柄に対して愛着が湧いてくる。そして聖地に赴き、「ここにあのキャラたちはいたんだ」というある種の錯覚をすることで巡礼を楽しむ。『のんのんびより ばけーしょん!』は、通常の舞台になっている田舎町を離れて沖縄へ旅行するという内容であるが、つまり、オタクを魅了する作品の空気感を構成する要素のうち、舞台は一新してしまう。しかしそれは決して悪いことではなく、登場キャラクターが前作とほとんど変わらないのであれば、そのキャラクターという要素に対する愛着を契機として、一新された舞台にも興味が湧くのであり、これこそが聖地巡礼の促進の成功に繋がる。キャラクターまで一新されてしまっては、作品に愛着する重要な要素が全て無くなり、興味を湧かせるという意味においてどこにもフックをかけることができなくなる。それでは聖地巡礼をしたくなるオタクは増えない。勿論、先述した『君の名は。』のように前作や原作のないオリジナルのアニメ映画のため、視聴以前にキャラクターや舞台に対する愛着が存在しない作品でも聖地巡礼させる効果はある。だが、日常系アニメでありながらそのような作品と同じ程度の効果に収めては意味がない。日常系であるならばその利益性を最大限に活かし、どうすればオタクが観光などの振興によりよく貢献してくれるか、という点を追求する必要が制作側にはあるのである。邪神ちゃんドロップキックもそこは共通しており、「ふるさと納税編」で登場するメンバーはやはり普段の回で登場するキャラクターと変わらない。この作品のメインの舞台は東京都の神田神保町であり、故に視聴者は神保町という舞台に対し愛着を抱く。しかしふるさと納税編では北海道の釧路や富良野などの市の宣伝を目的に、舞台がそれらに変わることとなるが、これが聖地巡礼の促進に効果的となりうるのは、キャラクターという愛着の材料が残っているから、というのは先述した通りである。もっとも、前作と次回作で登場キャラクターが変わるというのは少し例外的でもあり、これは日常系という枠を超えた話にもなるだろう。それにせよ、SFアニメにおいては登場するキャラが一新したとしてもストーリーの面白さを求めて視聴を継続する人は多くなると思われる。ストーリー性でいえば起伏は少ない日常系アニメにおいては、愛着というものはより強調しなくてはならない、ということである。
次に、OPやEDについて触れたい。ここでは、『のんのんびより』のエンディングテーマ『のんのん日和』と、『邪神ちゃんドロップキック』のオープニングテーマ『あの娘にドロップキック』の共通点について述べる。これは簡単で、どちらも曲を歌うのが作品の複数の声優らであるという点が何より大事である。まず事実として、複数の声優陣がOPやEDを歌う場合、その作品はほぼ間違いなく日常系やラブコメ(恋愛をコミカルに描いた作品)といった明るく"かわいい"ジャンルのものである。SFなどのシリアスな作品においても声優が歌うことはあるのだが、その場合、1人だけの声優が歌うものがほとんどである。(例えば、『STEINS:GATE』では『World-Line』というED曲があるが、これを歌うのはメインキャラクターの声優を担当する今井麻美である。)つまり、1人が歌うだけならシリアスなムードを保てるが、複数に同時に歌わせる場合にはそうはならない、ということである。聴いてみれば伝わると思われるが、前述した2曲からはどちらも非常に明るく元気な雰囲気を感じられる。これは音楽論に近いかもしれないが、なぜこのような認識の違いがあるのだろうか。これは、長年の音楽の歴史が産んだものだと考察できる。大人数で歌うアイドルというのはAKB48を始め多く存在するが、彼らの存在が我々の認識に影響を与えたのである。それではこの2曲を歌う人間が1人だった場合はどうかと言うと、明るい雰囲気は変わらず伝わりはするが、比較すると声が減ったことで寂しい印象も生まれるだろう。その逆で、暗い曲でも10人以上の女性が歌う場合には、「アイドルの曲だ」という意識が強まり、そこまで暗い気分には至れないだろう。音楽の歴史が生んだ認識とはこれであり、それをアニメ制作側は理解し、「曲をより明るくして、作品を象徴させたい」と考えた上で、『のんのん日和』や『あの娘にドロップキック』はボーカルを複数人の声優にさせることになったのではないだろうか。
また、複数人であれば誰でも良いというわけではないという点も大切である。先程から言うようにこの2曲を歌うのは声優なのだが、その必然性は何か。それは、先程の視点であった聖地巡礼に関する記述に参考にできる部分がある。それは"愛着"に関することである。歌うのが声優なことで、見る人はアニメの本編の映像だけではなく、OPやEDからも作品の空気感の構成要素である「キャラクター(の声)」を感じ取れるということになる。こうして、これほどまでに作品に愛着を抱かせることを徹底することで、日常系アニメというのは根強い人気を維持しようとするのである。
最後に、日常系アニメがフィクションであるという現実について触れる。ノンフィクションとは、現実に実際に存在した事件や出来事をアニメーションや実写など様々な形で映像化(再現とまでは言わないが)することである。邪神ちゃんドロップキックはあまりにもファンタジー要素が多いために、ここでは『のんのんびより』のみを例に取りたいのだが、何ら現実に存在する限りの現象しか起こらず、日本の田舎らしい風景で、人間が行いうる限度のことをしているに過ぎない内容ではあるのだが、『のんのんびより』で描かれるような事柄を実際に体験しているオタクは少ないだろう。作品は作品として面白くある必要がある。面白いということは退屈な要素をなるべく削ぐ、ということである。しかし、現実においては退屈な要素を削ぐという都合の良いことは不可能である。"日常系"とは言えども、我々の日常とは程遠い存在なのが「日常系アニメ」というものなのである。だからこそ、オタクは時に退屈な日常を面白くするために、日常系アニメに没頭するという選択肢をとるのであり、現実と日常系の違いをネガティブに捉える必要性はない。
また、最大級の非日常と言えば、その作品が最終回を迎えることであろう。『邪神ちゃんドロップキック』はまだ最終シーズンを迎えてはいないが、いつまで続くかは分からない。しかしアニメ『のんのんびより』は、原作漫画自体は完結しており、ハッキリと発表されたわけではないがアニメ3期『のんのんびより のんすとっぷ』の最終回がその漫画の最終話と一緒の話であったために、アニメ自体も完結したと考えるのが通説である。我々は日常を見て癒されたいというのに、それはふいに終わってしまう。無論、"死"ではなく、アニメーションという形式の都合で、大概はどこかで最終話を迎える。最終話を迎えたからといって、登場人物たちの人生はその後も続くはずである。『のんのんびより』においても、最終話はあくまで話に区切りをつけたに過ぎず、続きを作ろうと思えば作れるのであるが、それは叶わないだろう。それを受けたオタクたちの間ではしばしば、「もはやこれまで」という言葉が使われた。のんのんびよりのアニメでは毎話の最後に「今回はここまで」という話を区切るメッセージが表示されるのだが、それを彼らは被虐的にもじったのである。アニメが終わることは悲しいことに思われる。実際、悲しいと感じることは間違いではないが、それを暗いことだとして収めるのは良くない。それでは、アニメを見終わったオタクは暗い気持ちになるということになり、日常系アニメの存在は人に良い効果をもたらさないという結論に至ってしまう。「今回はここまで」というメッセージは、見る人に2次元と3次元の次元の壁のようなものを意識させる効果があったかもしれない。そうして、あまりのめり込みすぎないように抑えるのである。ここまで日常系アニメへの没頭について述べてきたのだが、没頭とは行き過ぎると悪いもので、アニメに対する適切な距離感というものが存在するのである。SFやファンタジーを見る時は、「ストーリーの面白さ」を追い求める中で、「どのように終わるか」も注目される。つまり、終わりが要求されるのである。しかし、日常系アニメの場合は「終わらないでほしい」という声があがりがちである。それでも終わってしまったとき、そこでアニメオタクは宙ぶらりんにされたような気分になるだろう。それは誰でもなるし仕方ないのだが、いつまでもそのような暗い気分のままでは、日常系アニメに没頭することには一体なんの意味があるのか、という疑念が湧いてしまう。日常系の存在が良いものとしてあり続けるためには、オタクがどのように楽しむがが大切となり、作品が終わったあとに空っぽな気分になるのではなく、その作品からメッセージや励みなどを受け取り、ポジティブな気持ちで前に進める必要がある。
我々の日常は、日常系アニメのように簡単には終わらない。しかし、ただノンフィクションの日常を過ごすだけではどこか退屈である。ゆえに、オタクは日常系アニメという非日常に没頭し、心を癒し続ける。SFやファンタジーと比較をしたうえで日常系アニメに偏見を持つ人もいるが、『のんのんびより』も『邪神ちゃんドロップキック』も、日常系だからこその楽しみ方というものに気づければ、必ず面白さが分かるはずである。日本には、日常系アニメが必要な人が多い。日々のストレスを癒す手段としても、日常系アニメを鑑賞することは効果的なのである。アニメというのは1年で4シーズン(春夏秋冬)あるのだが、日常系アニメは大抵1シーズンに1つはある。このレポートを書いている時は、丁度2024年の冬アニメが始まる頃である。果たして、今期はどのような日常系アニメが放送されるのであろうか。辛い日常を生きる我々の心を癒し、そして励ましてくれることに期待する。
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