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I was born

 娘の高校の国語の教科書を読んでいた。

「I was born」

 吉野弘さんの詩が目に入った。これは、私が高校1年生の時に教科書で読んで、いちばん印象に残っていた詩だ。高校生の時、何度も繰り返し読んだ。30年近くたったのに、まだ変わらず、ここにあった。

 当時16歳の私は、この詩を読んだ時、表現の仕方に驚くと共に、鳥肌が立つような感覚をおぼえた。授業もしたのだろうが、先生の解説は全く覚えていない。この詩は、散文詩で、映画のワンシーンのように私の心に残っている。儚げな文章のなかに、強い想いを感じる詩だと思った。

 ある日、身重の女性とすれ違った少年は、生まれることは受け身であるという文法的な発見を父に伝える。少年の母親は、少年を産んですぐに死んでしまっていた。子どもから、生まれることが受け身であると伝えられた父は、どのような気持ちだっただろうか。父は蜉蝣の話を少年に伝える。

---蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだがそれなら一体何の為に世の中へ出てくるのかとそんな事がひどく気になった頃があってね----
 僕は父を見た。父は続けた。
----友人にその話をしたら或日これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても入っているのは空気ばかり。見るとその通りなんだ。ところが卵だけは腹の中にぎっしり充満していてほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまでこみあげているように見えるのだ。淋しい光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは----。

吉野弘 「I was born」 より抜粋


 父は、直接的に息子に何かを伝えたわけではない。それでも、直接的な文よりもたくさんのことが伝わるだろう。蜉蝣をこれほどに美しく、せつなく表現できることに感嘆した。何度読んでも、心の奥のところがつーんとする。

 すっかり忘れてしまっていたけれど、今回また出会えたことがうれしい。大人になって読むと、印象が変わる詩もあるけれど、これは高校生の時と同じ気持ちになった。もう一度出会えてよかった。

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