求められているかどうか という境界線
私は、誰かの悩みや愚痴を聞くと、つい、どうしたらいいのかを考えたり、その先のことを想像して、次にどんな心配があるのかを考えてしまいます。考えてしまうというか、思いついてしまう。
そんでもって、疲れます。気がつくと疲れている。すっかり入り込んでいる。きっと、悩みや愚痴を話している方もモヤッとするんじゃないかな、って今更ながら感じます。
確かに、中には、なにかちょっと話しただけで「あーすればいいじゃん」「こーすればいいじゃん」って言う人がいて、モヤッとしたことがありますが、まさかそれが私とは。
むしろ、流せない。というか、しっかり受け止めてしまう。結果、踏み込んでしまう。踏み込むと当事者になってしまう。責任が発生する。そして、さらに疲れる。
そう考えるようになって、どうしたもんかと思っているときに、ふと、「課題の分離」を思い出しました。
悩みや愚痴を話している人は、確かにいろいろあるのでしょうが、それはその人の課題、問題と受け止めれば、それをいつのまにか受け止めてしまうことを避けられるのではないかと思ったのです。
そうすれば、その人の悩みや愚痴を、冷たい意味じゃなくて、共感して「大変だね」って済ますことができるんじゃないかと思いました。
とはいえ、「大変だね」で済ませていい場合と、そうでもない場合もあるわけで。その境界はどのへんなのかな?どんな時に何か言えばいいのかな?って考えてみました。
そして、私の考えは、「助けを求められてから」でもいいんじゃないかってことです。中には「助けて」といえない人もいるのですが、そこは一旦置いといて、求められてもいないのに、意見を云うのも変な話だし、これは境界としてはいい感じなのかなと考えました。
さらに、中には、利用しようとする人を遠ざける効果もある気がします。「助けてほしい」と言う前から出しゃばってしまうと、ある意味「勝手にやった」「頼んでいない」ということにもなるわけで、当事者になり、責任がはっせいするので、最初から私を利用しようとする人には都合が良いことばかりです。
と、そんなこんなで、他者との関係の中で、求められているかどうかを、判断の基準にするっていうのは、やってみる価値があるのかもしれないです。