【連載小説】Monument 第三章#7
馨(承前)
軒先を叩く雨音が、幾分静かになった。
どこからか、のんきなカエルの声が流れてくる。
「運動会、楽しみだね。晴れるといいね」
半分ほどになったサイダーを森ノ宮が揺らした。
「梅雨時だから、どうかなあ」
運動会は、来週の日曜。ぼくは短距離とリレーの三番手、そして騎馬戦にでる。
「今日は、騎馬戦の練習だったんでしょう。ケガした人がいたみたいだったけど、危なくないの?」
平気だよ――といったらウソになる。騎馬同士が激突し、押し合い、圧し合い、潰し合う。擦り傷や、たんこぶくらいは覚悟の上の競技だ。
「楽しそうだね。わたしもなにか、できたらいいのに」
森ノ宮は、運動会も見学だった。
「応援ボード、描いてくれたじゃないか。かっこいいよ。あれ」
「ありがとう。でも、また黛さんに迷惑かけちゃったかな、って」
「気にすることないさ。眞琴ってほら、頑固なとこあるだろう。小さい頃からぼくらといたもんだから、なんていうのかな、ちょっと男っぽくなっちゃったっていうのか、その……女の子の友達に慣れてない、っていうか」
なにが言いたかったのか、わからなくなった。
「うらやましいな。わたしにもそんな友達、いたらよかったのに」
「もう、友達だろ。ぼくたち」
「うん……そう、だよね」
森ノ宮は、サイダーを見つめながら、つぐんでいた口を開いた。
「うん。そう、だけど……毬野さんも、ケイタロさんも、眞琴って呼ぶよね。黛さんのこと」
「あっ、いや。それは小さい頃からなんとなく。そのまんま、っていうのか……」
「わかった。あのね。わたし、毬野さんのこと、馨さん、って呼んじゃだめ?」
へ? なんでそうなる。眞琴を眞琴って呼ぶのが先なんじゃ……。
「だから……わたしのことも、香澄でいいよ」
香澄?!
「いいよね? じゃあ、乾杯しよう! わたしコーラって飲んだことないの。一口ちょうだい?」
森ノ宮はサイダーの瓶を突きつける。
交換しよう、っていうことらしい。
でも、一度、口をつけてしまった瓶だ。
そのまんま交換なんて、してしまっていいのか?
泳がせた目線の端が、坂道を駆け下りてくる小さな黄色い雨合羽をとらえた。
勢いそのまま店先に飛び込み、振り向きざまに、こう叫ぶ。
「一回だけ。ねっ、おかあさん」
言い終える間もなく、女の子の長靴がぬかるみにとられた。
森ノ宮の目の前で、黄色い雨合羽がぐらり、と揺らぐ。
その先はガラス戸だ。ぶつかったらケガくらいではすまされない。
「馨さんっ!」
森ノ宮の意を察して、サイダーの瓶をひったくった。
「香澄っ」
間に合ってくれ。
激突寸前。
驚くべき反射神経で、森ノ宮は雨合羽を抱きとめてみせた。
「ありがとうございます。お怪我はありませんでしたか?」
母親らしいレインコート姿の女性が傘を畳むと、女の子の前にかがみこんだ。
「ダメじゃない、お姉さんたちに、ごめんなさいは?」
「ごめんなさい――ねえ、一回だけ。ねっ、ね」
女の子は、きょとんとした目つきのままで、母親にせがんだ。
「ありがとうございました」
女性は森ノ宮とぼくに目礼し、「ほんとうに一回だけよ」と念を押して、小銭を渡した。
受け取った女の子は、軒下に並ぶガチャポンを、さも難しそうに品定めする。
ようやく心を決めたのか、一台に小銭をセットした。
「出たあ!」
女の子はカプセルを頭上に掲げ、母親に向けて精一杯、背伸びした。
「さあ、行きましょう」
女性は、もう一度会釈すると、女の子と手をつないで坂道を下っていった。
いつの間にか、雨は上がっていた。
「すごいよ、森ノ宮。よく止められたな――大丈夫だった?」
「うん。ちょっとどきどきしてたけど、もう平気――ねえ、あれってなあに?」
「ガチャポン……っても、知らないよね」
ぼくが広げた車椅子に、森ノ宮が納まる。店先に六台並んだガチャポンの前へ、そのまま車椅子を寄せた。
左側の一列は明らかに男の子向け。真ん中はキャラクターの小物が二段。さっき雨合羽の子が回した右一列が、女の子向けのものらしい。
ぼくは飲み物の釣り銭を、左と右と、一台づつにセットした。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」
「ぼくも久しぶりなんだ。運試しみたいなものだから、一緒につきあってくれないか?」
「いち、にいの、さんっ!」
掛け声にあわせて、一緒にハンドルを回す。
ぼくのところには半分黄色の、森ノ宮には、さっきの女の子と同じ半分ピンク色のカプセルが出た。
「わあ、かわいい。ありがとう」
森ノ宮のは、髪留めだった。
早速、前髪に留めて、ぼくを向く。
「どう?」
どうもこうも、森ノ宮には、お世辞にも似合うなんていいようのない、ちゃちなおもちゃだ。
「か……毬野さんのは?」
ぼくのは、緑色の指輪だった。
おおかた店番のおばあちゃんが入れ間違えたんだろう。
ぼくはいらない。森ノ宮にあげよう。
……ん、待て。森ノ宮にあげる?
指輪を、か?!
頬がカッと熱をもった。
「ねえ、なにが出てきたの?」
――どうしよう。
ぼくは途方に暮れて、天を仰いだ。
「……虹だ」
「えっ、どこに?」
ぼくは右手のカプセルを素早くポケットに押し込むと、森ノ宮の車椅子をくるりと回した。
東の空に去って行く黒雲を跨いで、大きく虹が架かっていた。しかも、二重に。
「わたし、初めて見た……虹」
「ぼくもだよ。二重に架かる虹なんて」
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