見出し画像

小説

低気圧だという。爆弾低気圧。厚く重い空が街を覆っている。
 灰色の空、生ぬるい空気、鬱陶しい暖かさが肌にまとわりつくような憂鬱。天候だけで気分が左右される。
 こういうときに思い出すことがある。古い記憶だ。中学生のときは良かった。
 修学旅行、バスの中。京都の平等院鳳凰堂だったか、いやもしくは山中湖に行ったときだったか、そのどちらかに行ったときだと思う。あの時もこんな天気をしていた。
 
 僕は、流れる景色を車窓から眺めていた。
車内ではレクが開かれクイズ大会が行われていた。クラスに一人はいるお調子者が、マイク片手に張り切ってクイズを行っていた。くだらないクイズだったと思う。日本で一番多い苗字はなんでしょう、とか、私がモノマネしている先生をあててください、とかそういうもの。
 大体8割くらいの生徒がレクに参加して、あとの生徒は退屈そうにしていた。僕は後者だった。そして僕が見た限り、僕の隣の席に座っていた南も後者だった。
 僕は、南と話したことはほとんどなかった。クラスのバス席決めで、はじかれもの同士がくっつけられて僕等は隣の席になったまでだった。
 南は、社交的な人間ではなかった。誰かが声をかけても、何の感情も籠ってないような低いトーンで、あぁとか、うんとかしか言わなかった。必要に応じて、わかりましたとか、なんでもいいですとかそういうことだけ言ってあとは黙っていた。それに、南は不潔だった。季節に関わらずいつも同じ服装の半袖半ズボンだったし、給食当番で回ってくる白衣はいくら言っても洗ってくることはなかった。だから、代わりに担任の先生が持って帰って洗っていた。
 南はクラスで孤立していた。周りは南を蔑んでいた。僕ももちろん、厄介なやつだと思った。
 しかし、僕は南に確かに同じ匂いを覚えていた。それだけは言える。認めたくないが僕は南と同じ価値観を共有していると思った。
 一つ例を出す。一番覚えているエピソードとしては、現代文の授業で「羅生門」を習ったときだった。
 教師が、「下人がした行為は許されるものだったか」と皆に聞いた。数人が手を挙げてそれらしい意見を述べて、皆は頷いたり下を向いたり寝ていたりしていた。教師は半分満足そうに、半分退屈そうにそれらの意見を板書した。白い文字で、もっともらしい答えが並んでいた。模範解答。
 それ以上、手は挙がらなかった。教師は、あと数個だけ意見を書くために出席名簿を見ながら、番号を指名して立たせるようにした。
 適当な2人が指名され、適当な意見が書かれた。模範解答。
 教師は3人目を指名した。椅子が、きいと床に擦れる音がして誰かが立った。
南だった。
「……許すとか許さないとか、わからないです。僕はここにいるから下人に好きなだけ言えるけど、そんなことは僕が決められることだとは思いません。決定できると思っていることが浅ましいです、僕は。僕だったら下人の善悪を問うやつを許しません。だから、僕等が許されないです。それが悪です」
 教師は黙っていた。周りは相変わらず、頷いたり下を向いたり寝ていたりしていた。たまに、寝ていた何人かが顔を上げて南を見た。
 あとは、と南が何か言いかけたところで、教師は、もういいと意見を遮った。教室に沈黙が流れた。南は、消えるような声で、すみませんと言って席についた。顔を上げた何人かはまたうつ伏せになって、教師は、お前の意見は趣旨が違っている、と言った。
 僕は南を見ていた。
 僕のノートには、南と全く同じ意見が書かれていた。しかし発表することはない意見だ。書くだけ書いたもの、それが南と同じ意見だった。
 
 話を戻す。
 僕は隣にいる南とは何らかの共通点があると思っていた。何か特定なもの、死生観だろうか、自己規律だろうか、エゴだろうか、厭世観だろうか、わからなかった。
 僕は窓際席で、南は廊下側だった。南は僕と目を合わせることもなく、右手の指の腹を左手で擦ったり離したりしながら、何をするわけでもなくジッとしていた。
 外は灰色の厚い雲が怒りでも抱えているかのように場所を変えずに留まっていた。少しでも雲の間に隙間が空こうものなら、すぐにまた別の灰色の塊がやってきて隙間をなくし空を圧迫した。まるで御茶ノ水駅から中野駅へ行くまでの、余裕のない朝の満員電車のようだった。
 僕は、誰にも聞こえないぐらいの小さな声で、憂鬱だなと言った。声に出してみたら少しはマシになるかと思ったが、むしろ憂鬱は肥大化したようにも思えた。喉元からせりあがってくる鬱憤を吐き出すために、溜息をついた。もしかしたら、僕が吐いてしまった無数の溜息が天にもくもくと昇って、今の厚い灰色の雲になっているのかもしれないと思った。
「憂鬱」
 隣を見ると、南が僕をちらっと見た後、僕もそう思うよ、と言った。低い声だった。お調子者がマイクを通して話す声に若干かき消されていた、小さな声だった。
 しかし、確かに聞こえた。僕は数秒黙って、お前もかよと言った。僕とお前を一緒にするなよ、との意味合いも込めて少し強く言った。
 南は手遊びをやめて真正面を向いた。前の座席の後部に張り付くシートポケットを眺めていた。
「時々、どうしようもなく苦しくなる」
 南は、変わらぬ小さな声で言った。独り言なのか、僕に話しかけているのかわからなかった。僕は無視しようか迷った挙句、へぇと頷いてやった。
「こういう空の時に思い出すのは、楽しかった思い出だ。憂鬱な天気と反して高揚した思い出が蘇る。逆に言えばね、楽しい思い出はこういう憂鬱な空気感のときでしか思い出すことができないんだ。晴れの日にはどうも思い出せない。ねぇ、なんでだと思う?」
 南は少し顔を傾けて僕を見ていた。僕はただ、窓枠に頬杖をついて外を見ていた。
「……良い思い出が少なかったから」
「と、いうと?」
「今まで僕等が過ごしてきた何千日という日々の多くは、空を見ればきっと晴れていた日の方が多くて、しかしその日々はお前にとって良い日ではなかったから、良かったことが思い出せない」
「なるほど。つまり、僕が過ごした良い日々の思い出は、晴れの日とは反する憂鬱な天気とともに記憶されてしまっているってことかな?」
 僕は南のこの問いには無視して黙った。南も顔を戻して、喋りすぎた、と言って黙った。
 いつの間にかクイズ大会は終わって、バスが大きく右折し駐車場に入って行くところだった。
 僕は南とやはり同じ憂鬱を抱えていた。どうしようもない憂鬱だ。
 現在、空は重い雲が覆っている。南の行方は知らないが、多分同じ空の元にいるのだと思う。もしかしたら、この空に耐えられなくなって絶望して死んでしまったかもしれない、その可能性もないとはいえない。
 僕は歩いた。境のないひたすら厚い雲が遠くまで伸びていた。
 憂鬱だな、と声に出して言ってみた。雲は、隙間を開けることなく留まっていた。
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?