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Status qua bias

現状維持バイアス
本当に変わりたいと心底思っていない。顕在化された意識の中では変わらないと苦しいともがいている。潜在的には大切にしている価値観や慣習までも失いそうで怖い。だから変わりたくない。

・「あの人のことが分かった、共感能力が全くないんだ」「彼絶対私たちのことなんてどうでもいいと思ってますよね」「小さいころはどういう子供でしたか?やっぱり!不良とも優等生とも仲良くできるタイプだったんですよね?わかる気がする」

決めつけ、レッテル貼りで自分はおろか他人を決めつける癖を矯正する。自分基準で傲慢な視座が認知のゆがみに直結する。
人がなぜそう振る舞うのか、これらは当事者へ逐一質問して話を聞いて初めてその理由をわかるはずなのに。
「自分はあなたのことをなんでもお見通しだから、皆まで言わなくてもわかってるよ」相手より優位に立っていると思いたいから?それもある。
私はたくさん経験を積んでいろんな感性と向き合ってきたからあなたの感じていることはよーくわかる。自分が一段上の視座に立って相手を安心させてあげたい。自分がそうされると安心するから。「ああ、この人は私がわからないことを言語化できる経験があるんだ、この人なら私を変えてくれるかもしれない」

「つまりこういうことですよね?」話をさえぎる、自分の言葉でまとめたがる。それは自分の感性に照らし合わせて他者の気持ちを理解したいから。真に共感したいと思うから。

私と腹を割って話せる人は苦しんでいるはず。後ろ暗い思いを打ち明けてくれるのは苦しみから逃れたいと思っているからに違いない。


現場でそこまで考え及んでいる訳ではないけど、無意識の行動原理として働いている感は否めない。

先回り癖、わかった風な口を利く癖、これらが発動する条件について初めて言語化してみたけど、どうも私は理性的に動けていない。

攻撃性はないから周りに危害を加える性質でもないけど。

・サラリーマンとして雇われとして、自分の「得意」をゼロから開発する。
学生時代から、今でもなお、一時的な回避期間こそあれ潜在的には間違いなくずっと苦しんでいる。
自分の内面を見つめて漠然とした不安と危機感に焦りながらそれでも自分を定義しようとしてきた。

こんなにも苦しいのに、何度も死のうとしてきたのに、社会に放り出されて気づいた。
「私が苦しんできたことはお金にならない」
そんなはずはない。苦しめば苦しむほど何か大きなものを得られるのが人の世じゃないのか。「楽して稼げる仕事はない」
「労働は須らく苦しいが、それを耐えることで人間は成長できる」
「自ら痛みを経験することで人の痛みがわかるようになる」

努力にも、苦しみにも効果を最大化するためのやり方がある。私はただ思うままに、感性に任せて苦しんできただけ。思えばそれを否定する人はあまりいない。敬意を示してくれる人すらいる。自分でもそれは否定したくない。

それでも苦しみの先に待つ「ご褒美」のことなんてろくに考えず思うがままに苦悩してきてしまったツケが回ってきた。うすうす気づいていた。でも社会は、私のしていることはただの自慰行為でしかないことに否が応でも気づかせようとしてくる。

本当に金にならない。生産性がない。何も生み出さない。第一に使う場面がない。
これだけ情熱を注いで、大切にしてきた価値観なのに、何一つ役に立っている気がしない。(役に立っていないという思い込みも別途考えないとな)

これだけこじらせて積み重ねてしまった価値観を今更崩すのは不可能なんじゃないだろうか。「これが自分のいいところ」「これが自分のアイデンティティ」もはやそう思ってしまっている。

否定せず、でも劇的に、どうすれば変えられるのか。現状維持バイアスを外せるのか。

「価値観存亡の危機」「命の危機」こういうものに出会う必要があるのか。徹底的に否定される必要があるのか。


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