正直なフィクション
"正直なフィクションとは、我々が語る真実によって作られる嘘である"
上記の名言を遺したのは、アルベール・カミュというノーベル文学賞を受賞した人物らしい。
フィルムアート社より出版されている『テーマからつくる物語再入門』という本にそう書いてあった。
衝撃を受けた言葉だった。
折角なので、この学びをnoteに書いてみようと、こうしてcafeの椅子に腰掛けスマホのキーを叩いている次第である。
さて、『優れたフィクションは、必ず、真実のフィクションになる』らしい。
……どゆこと? 真実のフィクションってなに?
冒頭から、難問の気配……。
気になって読み進めると、なんとなく見えてくるものがあった。
……急ですまないが、読んでくれている方々に言っておきたいことがある。
俺は頭がわる……良い方ではない(震え)。
どの程度かと問われれば、「(なんか、『〜次第である』って言い回し、頭良さそうに見えるよね~🌸)」とか考えているくらいにはオツムがポンだ(・ω・)
これから先は、理解力よわよわな個人の感想だと承知しておいて欲しい( ー`дー´)キリッ
では、話しを戻そう。
"優れたフィクションは、必ず、真実のフィクションになる"
なんとも、真意を掴みにくい言葉だ。
フィクションにおける真実とはなんだろう。
そして、目に止まったのは、こんな一節だった。
『フィクションにおける正直さとは、書き手自身の真実を示すことではありません。キャラクターにとっての真実を第1に描くことです。あなたの価値観や考え方に合わないキャラクターに何かを語らせる時も、そのキャラクターの思想に忠実でいなくてはいけません(抜粋)』
……脱帽した。
キャラクターとちゃんと向き合えていなかったと痛感させられた。
同時に口が渇く感じがして、冷めかけのブレンドを煽る。
俺は、自分の都合の良いようにキャラクターを喋らせ、行動させて、『キャラクターの主観に立つ』ということを完全に見落としていた。
対話ができていなかった。
キャラクター個々の価値観、思想による行動の結果、例え物語からはじき出される運命にあったとしても、精一杯、産み出したキャラクターを愛するべきだった。
自分のことを大切に思うように。愛するように。
安易に「(うーん。このキャラクター、テーマから外れた行動が目立つし、扱いにくい。でも、好きなキャラクターなんだよな。なんとか生存できるようにしよう(キャラクターの意志や価値観を捻じ曲げて)。死なせるのは、個人的に悲しくて、辛い。やっぱり、幸せになって欲しいし)」
本を読む前の俺が無意識にやっていたことは、多分、こういう押しつけだ。
みんな、俺的ハッピー・エンド。
悪役だって、なんだかんだで生きていれば希望が見つかるよね(干渉して、価値観を変更しちゃおう)。
……自分で書いた内容を読み返し、ゾッとする。
それは、"キャラクターを殺す"ことと同義ではないのか?
『正直さ』とは、
単純に肯定することでも、否定することでもない。
共感――キャラクターの意志、思考、価値観に干渉や批判をせず、主観によりそって共感できる所を見つけ、理解に努める。
その、生き様、可能性を正直に描く。
この考えが正しいかは分からない。
脳みその足りない俺が、そんな風に思い至っただけだ。
時間が経てば、また、別のことが正しいと書いているかもしれない。
だから、ここに記す。
このnoteは、俺の備忘録的ななにかである。
いつか、愛すべき物語を書き上げたい。
そんな俺の、ただの備忘録的ななにかである。