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歴史読書の地図

歴史を学ぶことが何に活かせるのか。歴史は何の役に立つのか。

こうした問いを真剣に考えたことはなかった。小学時代には、感覚的に好きであるというだけで十分だったから。
E.H.ノーマンは、『クリオの顔』のなかで、「歴史の効用と楽しみ」というエッセイを書いている。収録されているエッセイのなかで、これを真っ先に読んだ。

歴史的思考や歴史的感覚は、あらゆる人々がもつべき必須の教養で、歴史への真の興味が、「文明を、個人を、世界を前進させる」

そのエッセイから、このようなメッセージを汲んだ。
科学の全盛時代にあってこそ、歴史の役割は重要性を帯びている。歴史を学ぶことで、過去の成功や失敗を発見し、現在の課題に応用することができる。歴史を、人類がその集合的経験を未来に継承し、平和を実現するために欠かせない蓄積された知恵の宝庫である、と捉えることができる。
つまり、個人が歴史を学ぶとき、人類がその困難な道のりを経て得た経験を人生や社会に活かすことができる。

ケヴィン・ケリーに惹かれる理由の一つに、歴史的思考や歴史的感覚を著作に活かしていることがある。

ケリーのように歴史学者でなくとも、歴史的思考をテクノロジーを哲学し、未来を思索することに活かす人がいる。ケリーは自身の楽観主義的姿勢は、歴史を学んだことによると語っていた。

私は、科学と歴史は両輪だと思う。

ビッグヒストリーという一大潮流は自然科学と人文科学の隔たりを視点から排し、歴史を全人類と全生物種共通のストーリーとして提示した。

ビッグヒストリーの創始者はアレキサンダー・フォン・フンボルトに遡れるという見方ができると聞いたとき、このフンボルトが自然保護思想の構想者であるという事実が浮かんだ。ビッグヒストリーは人類という存在に、根源的な視野を提供している。コロナ禍、ウイルスという存在と人類、人獣共通感染症、人新世。これらをテツガクするには、メガヒストリーが必要で、必然的に要請されたのだと思う。

コロナ禍は自然と人間の関係を根本から再考する絶好の機会であるといわれている。ナチュラルヒストリーとヒューマンヒストリー、この双方は、決して重ならないのではなく、無数の糸が織りなす無限のハーモニーで、反響しあっている。メガヒストリー、あるいはビッグヒストリーが秘める可能性にとてもわくわくする。

私は、中学時代に科学部にいた。天文学に心を踊らされた一人である。しかし、歴史も同じくらい好きだった。日本には文理選択というものがある。ダイコトミーの好例だと思う。ビッグヒストリーにそういう境界はない。そもそも世界やCOSMOS自体に文理の区別はないのだと思う。人間と自然の分断。。つまり、文化と自然の大分断。これがAnthropoceneの論点でもある。

熊楠や漱石などは、この分断と格闘した。

ビッグヒストリーは、自然が好きだけど、歴史も好き。このような在り方を許容している。科学と歴史。哲学と歴史。これらは反響しあい、手を取り合って人類の前進に貢献していくのだ。




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