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プロレスから学ぶ物語論〜現実と虚構の狭間の物語 01ビッグマッチの後には必ず物語的な「引き」がある〜プロレスに「大団円」はない?

 アメリカにおけるプロレスの「物語」
 
 これは元々アメリカのプロレスで用いられている手法で、近年では日本のプロレスでも行われることが多いが、年間何百試合も行うプロレスでは一興行で盛り上がった後で「では次回(数ヶ月後)」というわけにはいかない。次の巡業先の地域、あるいは銘打たれたシリーズ興行(新日本で言うなら「G1クライマックス」や「1・4東京ドーム」、全日本なら「チャンピオンカーニバル」など)の宣伝、選手のピックアップ(チャンピオンに挑戦する次期挑戦者は誰になるか、とか)をしなければならない。巨額の宣伝費を投入するようなビッグマッチばかりでは赤字になってしまうし、かといって開催中の興行が盛り上がらなければ以降の集客にも影響が出てくる。だから今現在開催しているシリーズ中に大々的に次の興行のための宣伝は中々しづらい。
 そこで考え出されたのが物語的な「引き」をその興行の最終試合の後に導入する手法である。
 もちろん生でプロレスを観戦するのに予備知識はそれほど重要ではない。自分が足を運べる会場や、開催されてる地域ごとに「プロレスが来るんだ。見に行こう」ぐらいの軽いノリで観に行くのがある意味、一番正しい(興行的な意味でも)。あくまで「プロレスから物語論を学ぶ」という本テキストの主旨に基づいての知識である。
 
 ランキング戦のないプロレス
 
 個人のプロスポーツであれば「ランキング」が常につきまとう。個人の優劣をつけるランキングのないスポーツでも年間を通してとか、メインスポンサーが違う一大会の中で優勝者を決めるのが普通だ。だがプロレスはチャンピオンシップと銘打たれたものでなければ単純な勝ち負けで選手同士の優劣は変わらない。試合形式という問題はあるが(当人同士で決着がつかないタッグマッチや6メンなど)、一試合の勝敗でランキングのように順位は変動しない。もちろん興行的に「優勝者」を決めるシリーズもあるが、前シリーズの優勝者が負けた場合の次期挑戦者がその優勝者より成績が悪いことも多々ある。
 だからプロレスにおいて「ランキング一位の挑戦者」の指名試合のようなものは存在しない。勝った方が次はこの選手と、というマッチメイクはあまりなされない。それは結局、その試合の勝敗よりも次の試合が注目されてしまうからである。次のシリーズのために今のシリーズを踏み台にするのであればその興行を開催する意味が薄くなってしまう(その意味で近年の新日本の「1・4」「1・5」興行というのは非常に効率が悪い)。
 例外的に試合形式を「3WAY(三つ巴戦)」に変更する時だけ、3人めの選手も挑戦を表明する(それが「4WAY」なら4人めまで)。格闘技のように選手をランキング付けしないのもそれ故で(ランキングを作ると、ランク外の選手を挑戦させられない)、どんな試合形式で行われるかもプロレスにおいては重要な「引き」の一つだからである。
 例えばアメリカのプロレスの場合は「反則裁定ではベルトは移動しない」というルールがあったりするので、チャンピオン側が反則で逃げた場合のリターンマッチは「ノーDQマッチ(反則裁定なし)」になったりする。わかりやすく「次のシリーズで決着戦」という展開への布石が打たれるのである。
 そういう現実的な興行の盛り上がりと、次のシリーズへの注目度というバランスで考え出されたのが「大団円にしない」なのである。
 例を挙げると、
 
「反則裁定で挑戦者が勝っていたはずの試合が無効になる」
「乱入者が試合後のチャンピオンを急襲する」
「チャンピオンベルトを紛失する」
「試合後、チャンピオンが病院に搬送される」
 
 など、次のシリーズの展開やフィーチャーされるレスラーを暗示させる内容になっている。アメリカでは怪我や故障で欠場させたい選手がいるかどうかによっても次のシリーズの展開が変わったりもする。
 いわば今のエピソードに「没入させた状態」で、次のエピソードに「引き継ぐ」ための手法なのである。
 ドラマやアニメの「予告」の概念に近いかもしれない。エンディング後のCパートという言い方もできる。
 もちろんフィションを構成する上で後の展開のための「伏線」が必要ないとは言わない。
 ただ、この「大団円にしない」という展開にしただけで観客は思いの外、惹きつけられる。
 物語の次章への「引き」として考えた時、「(敵役と戦っている)最中の伏線」より「(敵役を倒した)後の不穏」の方が印象に残りやすい。物語の継続性は「まだ倒していない強敵」より「倒した後に出てくる雑魚」の方が高くなるのである。

 「エンディング」を迎えない物語
 
 では具体的に、ビッグマッチ後に「大団円にしない」とはどういうことなのか。
 具体的なレスラー像を参考に「大団円にしない」に至る過程を考えてみる。
 細かい展開や個性はあるものの、プロレスにおけるレスラーの行動原理はとどのつまり「チャンピオンになる」ことに集約される。それは先述したようにランキングによって挑戦者としての「格」が決まるわけではないので、次期挑戦者としてふさわしい「実績」や「因縁」が求められる。
 
 リーグ戦やトーナメントの制覇といった「実績」
 試合への乱入やノンタイトル戦でのチャンピオンからの勝利といった「因縁」

 
 主にこの2パターンが、前シリーズから引き継がれる次期挑戦者の「資格」になる。
 前者は挑戦権を獲得、後者はチャンピオンからの指名であることが多い。
 これが基本ベースにあって、その上で過去の因縁や抗争、対戦成績、ベビーかヒールかみたいなものが関わってくる。それらを踏まえた上で「チャンピオン」と「挑戦者」のどちらを今後の中心選手とするかで「大団円にしない」状態の意味合いが変わってくる。
 チャンピオンが勝つと「次回の防衛戦」「次期挑戦者の表明/乱入」「他団体への進出」が次の展開として用意され、ヒエラルキーの頂点を中心に物語が展開される。
 挑戦者が勝つと「リマッチ」「世代交代」「前チャンピオンの欠場」など、チャンピオンが中心というよりはチャンピオンをとり巻く環境を中心に物語が展開される。
 ヘビー級への転向やベビーフェイスからヒールへのターン(あるいはその逆)、敵対派閥への寝返りなども試合後のタイミングで行われることが多い。
 勝った方が変化することは少なく、負けた方はファイトスタイルを含め、心的な葛藤を経て、なにがしかの変化をする場合が多い。その意味では、プロレスは「チャンピオンが中心の物語」なのだが、「挑戦者」としての道のりの方が主人公然としている。
 言ってしまえば、どちらを会社としてプッシュするかという問題ではあるのだが、物語論として紐解くなら、「大団円にしない」とは「一つの物語の終わり」ではなく「一人のキャラクターの始まり」なのである。物語における着地点ではなく、一人のキャラクターの行動への布石として捉えることができる。
 プロレスにおける最大の「引き」とは「このチャンピオン(挑戦者)は今後どうなるのか」を想像させる展開である。繰り広げられた王座戦までの抗争を有耶無耶にするための結末が「引き」になるわけではないのである。今なら理解が及ぶが、一昔前に新日本で繰り広げられた「乱入・乱闘で無効試合になる」展開は、実はこの手法を採用しているのである(この流れが多すぎたのはまた別の問題であるが)。
 
 連載作品のようなプロレス
 
 登場したキャラクターを主役にしたいのか脇役にしたいのか、成功させたいのか挫折させたいのか、勝たせたいのか負けさせたいのか、それによってどういう「引き」にしたらいいかは自ずと変わってくる。
 同じ「ビッグマウス」で「不遜」なキャラクターの選手であっても、チャンピオンになればダークヒーロー的なポジションになり、負ければ謙虚な性格になってベビーターンしたり、小悪党のようなコミカルなヒールになったりする。
 物語におけるキャラクターとは「何をするキャラクターなのか」が重要ではなく、「何をさせたいキャラクターなのか」が重要なのである。キャラクターをどう動かしたいかが「引き」の後の展開を大きく変化させる。
 だから「引き」の後や、長期欠場、海外武者修行後の凱旋帰国でプロレスラーは「化ける」のである。そのプロレスラーをどう売り出していきたいのか、その最大の「見せ場」が「ビッグマッチ後の大団円にしない」タイミングなのである。ある意味、プロレスラーにとってチャンピオンになるより衝撃的な展開が用意されているのがここなのである。
 プロレスのビッグマッチ後に学ぶべき「物語」とは、これからこのキャラクターを「どう動かしていくのか」という作者のオーガナイザーとしての資質も問われているのである。

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