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プロレスから学ぶ物語論〜現実と虚構の狭間の物語 12プロレスの抗争には必ず「テーマ」が存在する〜対立構造からテーマは生まれる。

 スポーツにおける「テーマ」
 
 大前提として、スポーツや格闘技において勝ち負け以外の要素は全て「おまけ」である。
 もちろん興行として考えた時、選手個人の人気はグッズの売り上げに直結するし、「名勝負」と呼ばれるような試合内容は観客の満足度を引き上げるものだ。アドバンテージが高い選手にとっては勝敗以外の「過程」や「試合内容」も重要ではあるが、あくまで「付加価値」としてのものでしかない。
 第三者から見た時、「勝敗」以外の要素は選手を評価する判断基準には仲々ならない。「いい勝負」が評価されるのはアマチュアまでであり、プロである以上、勝ち負けを試合の規範に置かなければ「競技」としてのスポーツが成り立たなくなってしまう。
 それでもスポーツにおいて試合の勝敗以外に「何か」を感じてしまうのは、そこに人の心を揺さぶる「テーマ」が内包されているからだ。喪章を付けてのプレーや、亡くなった家族への恩返し、自分に負けてしまった相手の想い、あるいは支えてくれた恋人への想い…人はスポーツを観る時、勝ち負けと同じくらいその選手の「想い」を共有したいのである。何度も繰り返してきたことだが、そういう試合以外の「テーマ」はそのスポーツに熱狂したり、特定の誰かを応援したり、没入するためには必要な要素だ。
 個人的な体験として今でも覚えているのは、『PRIDE10』において村上一成選手に佐竹雅昭選手が勝利した瞬間だった。今でこそ体格差だの勝って当然だのと言われているが、当時は打撃系の選手の戦績は奮わず、レスリング系の選手、寝技も使える選手が圧倒的に有利な状況だった(当時、UFCでは打撃メインに移行つつあったようだが)。そんな中で同年にアンディ・フグが亡くなり、K─1出身の佐竹選手は総合格闘技で思うように勝てていなかった。下馬評では圧倒的不利と言われ、試合当日を迎える。
 試合内容も決して圧していたものではなかった。マウントもとられた。村上選手が汗で滑るというアクシデントもあった。
 だが、佐竹選手は見事一本勝ちを収めた。
 そして勝利後のマイクアピールで「アンディ・フグ、見てるかー!」と叫んだのである。
 後にも先にもスポーツを観戦していて涙が止まらなかったのは、あの時だけである。次の藤田和之選手の試合が始まった後でも涙は止まらなかった。
 今思い返しても、明らかに佐竹選手が勝った喜び以上の「何か」が私の中にわき起こったのは間違いない。
 
 プロレスにおける「テーマ」
 
 プロレスの「対立構造」は力道山の時代の対外国人から始まり、現在の新日本、全日本、NOAHに至るまで似たような対立軸を踏襲して試合が行われている。それはほぼ「世代闘争」と「ユニット抗争」に収斂していく。「世代闘争」は呼んで字のごとく若手レスラーが中堅やベテランレスラーに挑戦していく構図で、「ユニット抗争」はベビーフェイスとヒールの対立構造のいわば現代版である。
 この対立構造そのものが、プロレスにおける「テーマ」と呼べるものだ。
 それは時代とともに変化していき、社会情勢とも大げさに言えばリンクしてくる。いわばプロレスは時代を映す鏡であり、単なるスポーツやエンターテイメント以上に観ている側の幻想を喚起し、また陶酔させやすいジャンルなのである。
 現在のSNS全盛の時代に、プロレスで「対外国人レスラー」を掲げて試合を組んでも力道山の時代のような熱狂は起こり得ない。あれは敗戦後、人々の価値観が崩壊し、心の拠り所を失い、「日本」という国そのものの存在が揺らいでいた時代だからこその「熱狂」であり、自分より大きな体格の外国人レスラーを力道山が倒すことで「強い日本人像」を仮託していたからこそ可能な「テーマ」だったのである。
 また、プロレス的なテーマは物語的なテーマとも親和性があり、ある種のエンターテイメントの普遍的なテンプレートにもつながる質のものである。若手がベテランに噛みつく構図などは、どこのスポーツでもどこの世界でも「共有」することができる極めて汎用性が高いテーマであろう。

 「テーマ」の難解さ

 テーマを掲げる上で難しいところは、強調すれば説教臭くなり、弱すぎれば「キャラクターの性格」がブレているなどという指摘にもつながるということだ。観念的な要素にも拘わらず、さじ加減が難しい。及ぼす範囲も思いの外、広い。現実の試合を観戦するだけなら別に「テーマ」がなくても十分に楽しめてしまう。別に試合の「テーマ」などなくてもいいのである。
 あってもなくてもかまわないが、あればより人々を熱狂させ、没入させるメリットはある。だが、度が過ぎれば倦厭感が起きる。使いどころがピーキーなのである。
 現在の新日本プロレスのハウスオブトーチャーの評価が分かれるポイントが、まさにこの「テーマ性」にある。オールドファンにとっては古式ゆかしいヒール軍団なのだが、人によっては乱入や乱闘で勝敗がうやむやにされ続けた新日本プロレス暗黒期の倦厭感を呼び覚ましてしまう。
 テーマと聞くとある種の難解さがつきまとうが、要はわかりやすい対立構造を大上段に掲げることで「どういう考えに基づいて、どういう行動をとるのか」ということを理解させるための入口なのである。
 現実と虚構の橋渡し役ともいえる。その意味では、全ての「物語」にはテーマが内包されている、といえるのかもしれない。

 受け継がれる「テーマ」

 力道山の時代の「対外国人」は時代を経て「外敵」というテーマに変化する。いつの時代も多かれ少なかれ存在する「帰属意識」は来訪者に対して対抗心を燃やすものだ。軍団抗争としてのベビーとヒールの対立軸は残っているが、「ユニット抗争」としての側面が強くなった。「闘魂三銃士」や「四天王」といった世代でくくる「テーマ」も「ユニット」に吸収された感がある。
 その中でも最も難解で、最もプロレス的なテーマの一つが「イデオロギー闘争」である。
 Wikipediaから「イデオロギー」の項目を引用してみると、

イデオロギー(: Ideologie, : ideology)とは、観念 (idea) と思想 (logos) を組み合わせた言葉であり観念形態である。思想形態とも呼ばれる。文脈によりその意味するところは異なり、主に以下のような意味で使用される。意味内容の詳細については定義と特徴を参照。
通常は政治宗教における観念を指しており、政治的意味や宗教的意味が含まれている。

 とある。
 プロレスでは何十年も前から使われてきた単語だが、さっぱり意味がわからない(私の理解力の問題はさておいて)。個人や社会集団によって共有される思想や信条、世界観などを意味するらしいのだが、正確な日本語訳は存在しないらしい。
 要は「この団体は俺のこういう考え方で試合(運営)していく」という主張であると、今回は捉えておくことにする。こうまとめてみると新日本のEVIL選手の主張などはまさにイデオロギー闘争なのだが、本来は経営者層が使う単語なのではないだろうか。
 そしてこの「イデオロギー闘争」こそが、タイトルにもある「現実と虚構の狭間の物語」の象徴ともいえる言葉である。こんなテーマを試合の内外で掲げるスポーツは間違いなく「プロレス」だけである。
 自分の「主張」の正しさを試合を通して証明するということは、すなわちその団体の看板に自らを掲げることと同義である。#10で不可能であると明言した「疑似スター」を生み出すテーマを「プロレスの抗争」は内包していることになる。
 何と罪深く、何とわくわくする「テーマ」であろうか。
 もちろん人によっては馬鹿げているとも、現実を見ろという主張もあるだろう。プロレスの暗黒期を見てきた人間としては「現実的」には正しい批判であるように思う。他のスポーツでは荒唐無稽もいいところだろう。
 だが、「プロレス」そのものが現実離れしている、と捉えることもできる。
 初めて生で聞いた逆水平チョップの打撃音の衝撃は今でも耳に残っている。
 あれは人間が出せる音ではない。
 少なくとも想像できる範囲外の「音」であった。
 あり得ないほど鍛え抜かれたプロレスラーが、更にあり得ないほど大きなプロレスラーに立ち向かっていく光景は、それだけで圧巻である。
 自分が生きてきた「現実」には存在しない光景がそこにはある。
 そういう「幻想」を抱かせてこそ「プロレス」なのである。
 だからこそ、プロレスで展開される物語は「現実と虚構の狭間」に漂う「物語」なのである。
 
 ※まだ閑話が一つ残っていますが、ここで一区切りとなります。通年授業の前期終了といったイメージです。思いつく限りは投稿は続けますが、散発的なタイミングになるかもしれません。
 ここまでお付き合いいただいた奇特な皆様、「スキ」をくれた皆様、とても励みになりました。
 ありがとうございました。

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