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プロレスから学ぶ物語論〜現実と虚構の狭間の物語 00プロレスはなぜ「善玉(ベビーフェイス)」と「悪役(ヒール)」に分かれているのか?

「善と悪」のように「正反対の立場」の方が「対立構造」を作りやすい、というのが最も簡単で最もわかりやすい説明になるのだが(個人的にも立場的にも嫌い合っている方が「戦う理由」になりやすい)、それだけでは不親切というか、不十分というか、物語論とは別にプロレスの「見せ方」の歴史にも関わってくる問題なので、もう少し丁寧に解説してみようと思う。

 スポーツにおける「観戦」と「応援」

 最近のプロレスにおける選手の立ち位置はユニット(派閥)ごとに区分けされている印象があり、応援スタイルもアイドルの「推し」的にプロレスラーを応援する傾向が強い。だから離脱や加入はあってもユニットそのものの解散はあまりない。派閥や軍団、ユニットはあくまで「推しの選手」が所属するものでしかなく、ユニットそのものを増長・拡大させようという意識は選手の側にもあまり感じられない。
 試合はあくまで個人対個人という図式で行われることが多いが、プロレスはベビーフェイスとヒールでファイトスタイルが明確に違うので(もちろん例外はある)、観ている側は一試合の中でどちらの側からでも「応援」しやすい。
 プロレスでは「自尊心」や「劣等感」が試合内容とも直結するので「対立」するような区分けになりやすいが、プロレスに限らず、団体競技などでは「自分が応援しているチーム(選手)とそれ以外」という図式で観戦する場合が多い。観戦初心者はともかく、純粋に「応援」ではなく、スポーツそのものを「観戦」している場合は少ないだろう。個人競技は同じ選手の試合を何試合も観るケースは少ないので、スポーツそのものを観戦する傾向にある。もちろん人気選手や有名選手、個人的につき合いのある選手を観るのであれば、また別の楽しみ方にはなろう。
 つまり、チームや選手個人に思い入れが強ければ強いほど「観戦」ではなく「応援」になるのである。選手個人に思い入れがなかったり、チームの背景や歴史を知らずに「応援」はできない。
 だからスポーツを観戦する際の「応援」とは、物語における「没入の手段」=「感情移入」に近い。
 そしてその「感情移入」を試合以外で作り上げるのがプロレスなのである。

 プロレスに「動員」する

 古くは力道山の、敗戦による戦後の陰鬱な空気を「一人の日本人が自分より大きな外国人をなぎ倒していく」(在日かどうかはこの場合問題でない)という画面に熱狂するという「動員」の仕方が始まりといえるだろう。これは単純な物語論における「感情移入」の手法、プロレスは知らないけれど「日本人が外国人を倒す」という対立構造の「一般化(わかりやすさ)」の一例である。戦後という特異な状況における「熱狂」ではあるが、「歴史」と「対立構造」みたいなものは日本以外の国でも見受けられる。
 プロレスではないが、スペインにおけるサッカーチーム「バルセロナ」の特別な立ち位置(内戦で独裁政権に占領されていた時代、バルサのスタジアムの中だけはカルタゴ語を話せたという。バルサが「ただのサッカーチーム以上」と言われる由縁である)や、スペインの植民地時代にメキシコの伝統文化の継承として発祥したといわれるプロレス「ルチャ・リブレ」の「ルチャ(マスク)」(占領下なので自国の伝統や文化を伝えることすら禁止されていた)と「ルード(素顔)」(占領国の側の人間なので身分を隠す必要がない)の「対立構造」などが非常にわかりやすい。
 興行的な側面からいっても、戦う両者に因縁や対立構造があった方がメインイベントではない試合でも観る側の興味を引けるし、プロレスは他の個人競技のようにランキング戦があるわけではないので、「戦う意味」みたいなものが他のスポーツより薄い。それを補う意味でも「対立構造」は試合を成立させる上で必要不可欠なのである。
 ゲーム的なファンタジーに例えるなら「魔王討伐」でも「王女がさらわれた」わけでもないのに自分の名声のためだけに強い者を倒しに行く「勇者」の話では、作品そのもののおもしろさはともかく、「感情移入」はしづらいだろう(そもそも勇者である必要がない)。
 要は第三者から見た時の「わかりやすい」動機付けのようなものである。
 
 対立構造から派生する「物語」
 
 プロレスにおける「対立構造」の意義は、選手間の「戦う理由」に留まらない。
 プロレスは年間百試合以上も行うので、どうしてもシリーズごとに興行的な差が生じやすい。かといってビッグマッチばかりでは経費が回収できなくなるし(興行である以上、同じ会場でも観客動員数が同じになることはあり得ない)、人気選手ばかりを戦わせていてはマッチメイクはすぐにマンネリ化してしまう(プロレスは「マンネリの美学」でもあるのだが、それはまた別の章で)。そもそも当たり前だが、どれだけ人気があっても一人の人間が戦える試合数には限界がある。
 そこで「対立構造」を用いて試合をすることに大きな意味が出てくる。
 試合内容で観客を満足させることももちろん大切だが、「対立構造」を用いることで試合以外の部分で次のシリーズへの期待を煽るような展開を用意できるのだ。
 ユニットや個人が対立していればこそ、試合後の「裏切り」や「追放」といったネガティブな展開から、「ピンチに駆けつける新たな仲間」、時には反目し合っていた者同士の「和解」や「共闘」といった(プロレスファンからすればおなじみの)「燃える展開」に興奮し、感情移入できるのである。そしてこれらの展開を経ることで次期シリーズの興行へと新たな興味を引くことができるのである。最も簡単な手法であれば、オペラの幕間のような「章が切り換わった」ことを示す「暗転」である。
 
 多様性こそがプロレス
 
 わざわざ「わかりやすい」プロレスを小難しく解説しているが、それだけプロレスは他のスポーツより楽しみ方が多い、というだけ話である。社会が「多様性」などと騒ぎ出すずっと前からプロレスは多様性に満ちている。楽しみ方は人それぞれで、リング上でもバックステージでも記者会見でも、選手個人でも軍団抗争でも、試合内容でも物語的なシチュエーションでも楽しめるのがプロレスなのである。
 プロレスはルールが曖昧だからわかりにくいという意見もあるが、自分が聞いた情報の全てを無視して「3カウントをとられた方が負けるスポーツ」とだけ理解して観戦してもいいのである。「曖昧さ」や「わかりにくさ」を無視して楽しむ楽しみ方でも間違ってはいない。プロレスラーの鍛え抜かれた肉体にはそれだけの迫力がある。普通の人間ではあり得ないほど鍛えた肉体というのは、それだけで非日常の空間を演出する。初めて生で聞いた逆水平チョップの「音」は今でも忘れられない。
 自分で語っておいてなんだが「対立構造」などプロレスのほんの一部分でしかない。それがなくても楽しめるし、あれば誰かと語りたくなる。それもプロレスである。
 これから語る「プロレス物語論」は、そういう古き良き、誰かと語りたくなるような「紙のプロレス」を目指すものである。


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