見出し画像

フィクションをフィクションとして楽しめることは実は高度なこと

私たちは小説やテレビドラマ、映画やマンガなどを通して、日々あたりまえのように様々な物語に触れてそれを楽しんでいますが、実はこれはけっこう高度な技術だったりします。

小さい子どもは、何かお話をきくと、「これって本当にあったことなの?」ときくことが実は多いんです。私も同じような経験があって、10年以上前に教えていた生徒なんですが。何の話を教えていたかは記憶が定かではないのですが、授業の後に、「これって本当の話なんですか?」と質問にきました。

それは創作物であったので(創作だったとしても、自らの経験や思考は一部入り込むことはあるとは思うのですが)、「これは創作っぽいね」と答えたら、「作り話なんですか?」ときたので、「そうだと思うよ」と答えました。そしたらその子は、「なんだ、つまんない」と言ったんです。

たしか高1だったと思うんですが、当時まだ僕も若く経験も今より全然なかったのもあるんですが、一瞬本当に意味がわかりませんでしたね。「現実に起こったことではないから面白くない? …普通逆じゃないか? 現実に起こっていないことを自由にイメージできるから面白いんじゃないのか?」と、ええ、その時は思いましたね。

当時気になりすぎて、その後いろいろ調べてみたんです。そうしたら、ある記事にたどり着き、「論理的思考や精神的発達が未熟な場合、フィクションをフィクションとして認識することが不得手となり、想像が困難なため考えると頭が痛いかんじになり、話を聞くのが嫌になる」的な内容でしたが、当時の僕は、妙に納得したのを覚えています。その子は日常会話も危うい感じの自分勝手な生徒でした。他にも同じような内容の記事はありました。

これはわりと笑い話ではなくて、たとえばハリーポッターのマルフォイ役の人は、映画の中で悪役であるがゆえに観客から嫌われまくって病んだりしています。他にも似たような例はもう何回も見てきました。まあ実際強面だったりヤバいことやってそうな役をした人が実際にヤバいことで逮捕されたりしているのでややこしいことになっているというのはありますが。

上記はどちらかというとそもそもフィクションをフィクションとして「認識」すること自体が実は難しいよ、という話ですが、次の段階として、フィクションをフィクションとして「認識」した上で、それを「楽しめるか」どうかということを話してみようと思います。

フィクションも、それが魅力あるものであるためには、全くの現実離れしたデタラメではいけないと思うんです。現実の世界と共通する部分を持ちながらもそれを理想的な面も含めて描くことによって、かえって現実の現実らしさや複雑さや真実が「浮かび上がる」。これがフィクションの存在意義だと思うんです。(「真実」というと最近のアカデミックな業界的にはうさんくさいやつだと思われそうなので、いわゆる「あるある」ネタ的な共感や実感のことだと思ってもらいたいです)

現実が現実としてありながら、「もうちょっとこうだったらもっと素敵なのにな」ということが自然な変化として描かれているということが、いかに美しく、人々の心を癒してくれるかということは、想像力豊かな読者なら共感していただけると思います。一部分だけでもいいんです。一瞬だけでもいい。日常の中で「見過ごされがち」な一面を発見し、その発見した成果を偉そうに自慢するのではなく、さりげないかたちで「ほら、こういうのどう?」みたいなかんじで自然に見せてくれる人。まさに私が尊敬したくなる人物であります。

だから、フィクションだから思いっきり現実離れしていていい、現実の法則からぶっとんだいかれたものつくってやろうぜ!とか、時系列とか矛盾しまくっててもとにかく派手でいろんな要素つめこんだやつ!みたいなの最近多いと思うんですが、どうしても手にとれないんです。映像美とか風景がきれいなのは好きです。ただ矛盾が多すぎるとどうしてもちょっと…。もちろん個人的にはです。ぶっとんだ作品のイカれ具合がおもろっと思っている人が世の中にたくさんいることは否定しないですよもちろん。ギャグマンガだらけの世界で生きる生き方も一つです。

僕は繊細な世界が見たいというただそのことなんです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?