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哲学と肩パッド

看護学生時代に哲学の授業を受けた。
東京の大学からド田舎の学校までわざわざ女性講師が来てくれていた。

初めてその先生を見た私たちは若干ざわついた。アメフトの選手のような肩幅だった。
主張の強い肩パッドが、その先生の迫力をカサ増ししていた。

授業は難しく退屈だった。
私は先生の話を聞いてるふりをして、窓の外の景色や器用にペンを回す好きな人の長い指を眺めたりしていた。

突然「そこのあなた立って」とドスのきいた声がした。
良かった。私じゃない。
友人が怯えた顔で立ち上がり、先生はその子に聞いた。

「机って生きてると思う?」

想定外の問いに困惑する友人に向かって、教壇をおりた先生がゆっくり近づいてくる。
友人は「…机は物なので…」と小さな声で答えた。先生は「で?生きてると思うの?」と繰り返しながら尚も近づいてくる。
友人は小刻みに震えている(ように見えた)。

答えにつまる生徒は放置されたまま、次々と友人達が標的となり同じ質問をされている。
生徒のひねり出す答えに「なんで?」「どうして?」「それは何故?」と食い下がる先生を見て私は「なぜなぜ期の子どものようだ」と感心する。

感心してる場合でもなく、気づけば先生は私のすぐそばだ。近くで見ると迫力が違う。
心なしか先ほどより肩パッドも大きくなっている(ように見えた)。
いやだ、絶対あてられたくない。

「じゃ、あなた。」

私である。
もう私は決めていた。机は生きている、という答えで乗り切ろうと。なぜなぜ期の先生にどれだけ食い下がられても絶対に乗り切ってやる、と。
ところが次の瞬間、先生は私にこう言った。

「あなた何故うまれたと思う?」

え!!
ツクエイキテルヨーーー!!!!

なぜ質問を変えた!?なんで?どうして?
なぜなぜ期に突入した私は懸命に考えた。

「幸せになるためですかね…」と恐る恐る答えると間髪入れず次の質問がきた。
先生「あなたの言う幸せって何。」
私「…美味しいもの食べることです」
先生「あとは?」
私「好きな人と一緒にいること…」
先生「あとは?」
私「好きな音楽を聴くことです」
肩パッド「幸せじゃないと不幸せ?」
私「………それはちがいます。」
肩パッド「なぜ?」
私「幸せ、不幸せどちらか1つしか無いというのは変です。どっちもあるのが普通だと思います。」
肩パッド「ふうん。そう。」
くるりと向きを変えて先生は教壇へ戻っていく。
なぜなぜバトルは終わりを迎えた。
正解も不正解もないまま授業は終わった。

その後も哲学の授業は毎回この「なぜなぜバトル(大喜利)」が繰り広げられ、非常に疲れる授業の一つであった。

哲学とは何なのか結局ほとんど理解もせず、ただただ先生の肩パッドと真っ赤な口紅だけが記憶に残った。
こんな私の卒業時に先生は巻き物のようにおそろしく長い手紙をくださり、私が精神科に勤務することを大変喜んでくださった。

あれほど恐ろしかった「なぜなぜバトル」が今ふりかえると楽しかったような気がしているから不思議である。








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