頑張るということ
「頑張る」という言葉がある。
たいてい私達は皆、誰かに言われたことも、あるいは誰かに向けて言ったこともあるだろう。
中には「いや、初めて聞く言葉です。」という人もいるかもしれないので、念のため言葉の意味を調べてみた。
グワンばっている。
私達は皆グワンばっているのだ。
とくにこの季節。連日じめじめと蒸し暑く、ときに体温よりも高い気温の中で生きているなんて相当なグワンばりである。
加えて学校やら習い事やら仕事やらバイトやら家事やら子育てやら、人によっては闘病やら何やらかんやら。
そして日用品を詰め替えたり、風呂上がりには色々なものを肌に塗ったり擦り込んだり叩きこんだり、きっちり水平になるように洗濯物をピンチハンガーに干したり、それを取り込んで畳んだり。
ああ大変だ。
グワンばっている。
挙げればきりが無いほど、誰もが色々なことを頑張っている。(そろそろグワンに飽きてきた。)
普段よく使っている「頑張る」の意味は、先ほどの引用文でいうと「1」の「困難にめげないで我慢してやり抜く」であろう。
精神科ではよく「うつ病の患者さんに『頑張れ』とは言ってはならぬ。」というようなことが言われている。
私も新人の頃、諸先輩方からそう指導された気がする。
たまに読む文献にも、そんなことが書かれていた気がする。
(気がするばかりで記憶がおぼろげな自分に今「頑張れ!」と声を掛けながら、このnoteを書いている。そう、私は今グワンばっている。)
ちなみに何故うつ病の患者さんに「頑張れ」と言ってはいけないのか?
それも調べてみた。
「頑張れ」という励ましが、患者さんに「まだ頑張りが足りていないのか」という気持ちを抱かせ、プレッシャーを与えてしまうからだという。
精神科で働く中で、患者さんのご家族様と面談をする機会がある。
ご家族様からも不安げに「あれですか?やはり『頑張れ』とは言わないほうが良いんでしょうか。つい言ってしまいそうで…。」と、結構な頻度で質問される。
どうだろうか。
「頑張れ」とか「頑張ろう」といった言葉だが、本当に言ってはいけない(言わないほうが良い)言葉なのだろうか。
実のところ、私はうつ病の患者さんにも「頑張ろう」という言葉を使うことが結構ある。
その理由について書いてみたいと思う。
これは十数年も前の話である。
閉鎖病棟に勤務していた頃のことだ。
互いに暇を持て余していた私と患者さん2名は、私の提案でお散歩に行くことにした。
オセロにもカラオケにも軽作業にも飽きてしまい、隙あらば布団に入って横たわろうとする「うつ病」の患者さん(オジサン)2人である。
それとすぐに眠たくなるポンコツ看護師の私というメンバーでの散歩だ。
この2名の患者さんはどちらも病歴は長く、再燃と寛解(悪化したり軽快したり)を繰り返しているような状態であった。
うつ状態のひどい2人とも表情は平坦でモノトーンだ。
口数も少なく、声のハリも失われている。
とは言え、うつ病を発症して入院をするまで、この2人はもちろん「普通の」「ありふれた」生活を当たり前のように送っていた。
パリッとスーツを着こなして電車に揺られて出勤し、夜遅くまで仕事をして、家庭では「夫」と「父」の役割を果たし、それこそ頑張っていた。
今は「患者さん」という立場にあり、ラフなTシャツにツンツルテンのジャージを履いている。
そんなオジサン2人を散歩に連れ出したのであった。
夏の始め、たぶん今ぐらいの季節だったと思う。
あまりにも強い日差しに若干の恐怖を覚え、患者さんと私は病棟の備品である麦わら帽子をかぶって行くことにした。
この帽子は専ら畑作業で使われているものだ。
うなじの辺りまでを、淡い花柄模様の布で覆うことができるようになっている。
農家のおばちゃんがかぶっているアレである。
(花柄の布付き)麦わら帽をかぶったオジサン2人を両手に引き連れて出発した。公園までの一本道を患者さんの手を握り歩く。
小さな公園を目指し、そこでアイスでも食べようと私は目論んでいた。
時々立ち止まり、やはり病棟の備品である手ぬぐいで患者さんの汗を拭ってやったり、靴紐を結い直してあげたりしていた。
患者さんの動きは緩慢であり、なかなか進まない散歩である。
「暑い。」
「暑いねえ。」
「もうけえり(帰り)てえよ。」
「えー。公園でアイス食べようよ。」
「タバコ吸わしてくれっか。」
「ダメ。ライター持ってきてないよ。」
「んだらばアイスじゃなくてライター買ってくれよ。」
「ダメだめ。ほら行こう。」
そんな会話をしながら汗で湿った患者さんの手を引き歩く。
時々なまぬるく湿った風が吹いている。
木陰で水分補給を兼ねた休憩をしながら最近の具合いなどを尋ねてみる。
私から何か口にしない限り、何の会話もないままの散歩となる。それはさすがに気まずい&もったいない。
3人ともいささか奇妙な服装ではあるが、これは貴重なコミュニケーションの場でもある。
「最近どう?」という私の雑な質問に2人とも黙っている。
「お薬あまり効いてこないかしらね。」と尚も尋ねる。
患者さんのうなじを覆う花柄の布が、風でひらひら揺れている。
1人の患者さんが「……ダメだなぁ。」と呟く。もう1人の患者さんも「色々やってもらって申し訳ないけど、俺はもうダメなんでないかな…。」とジャージのポケットに手を入れたまま答える。
私は少し悲しくなった。
「おかげ様で元気になりましたよ。」
「退院が待ち遠しいぜ!フゥ〜!」
そんな答えを期待していたわけでは決してないが、やはり重苦しい空気をまとった2人の姿は悲しかった。
「そうか…あんまり良くないかあ。まあさ、焦らずやりまっしょ。ね?まずは公園で一緒にアイス食べよう。きっと美味しいよ。」
私はそんな当り障りのない言葉を2人にかけて、再び歩き始めた。
公園までの道の途中には保育園がある。
保育園の方から何やら賑やかな声が聞こえてくる。
「◯◯くーん、がんばれ!◯◯くーん、がんばれ!」
幼い子ども達の声が重なって大きな声となり響いている。
立ち止まり園庭を覗くと、小さな子ども達がリレーをしているのが見えた。
小さな歩幅でテチテチと、それでいて懸命に庭を駆けている。
「◯◯くーん、頑張れ!!」
「△△ちゃーん、頑張れ!!」
走る子が替わるたびに、その子の名前が大きな声で呼ばれては「頑張れ頑張れ」と応援されている。
「可愛いですねえ。」
患者さんにそう声を掛けようとすると、真剣な顔で子ども達を眺める患者さんの姿が目に入った。
あまりにも真剣に観ているので、声を掛けるのも憚られるほどだった。
しばらくすると「あんなに一生懸命に応援してら。」と患者さんの1人が口を開いた。
もう1人の患者さんも園庭をジッと見つめたまま「頑張れ、てのは良い言葉だな。」と小さく呟いた。
モノトーンな表情が、少し微笑んでいるように見えた。
私は懸命に駆ける子を観ていたが、患者さん2人はどうやら周りで応援している子らを観ていたようであった。
患者さんの言葉に私はハッとした。
走る子の周りをぐるりと囲み、しゃがんで応援している子らを観てみる。
顔を真っ赤にして、口を大きく開けて友達の名前を呼び「頑張れ、頑張れ」と繰り返している。
走る子と同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に応援する子らも一生懸命に見えた。
気づくと患者さんの1人は泣いていた。
私はちょっと驚きつつ「さあ、行きましょうかね。」と促して、再び歩き始める。
すると泣いていた患者さんが「がーんばれ、がーんばれ、がーんばれ…」と自分の歩調に合わせて呟き出した。
私も同じようにやってみた。
もう一人の患者さんもあとに続き、いつのまにか3人で、互いの手をギュッと握りながら「がーんばれ、がーんばれ…」と繰り返しながら歩いていた。
そして最後には何故か3人とも泣いていた。
オジサン2人と、出来の良くない看護師が奇妙な麦わら帽子姿で泣いていた。
公園の手前の商店(コンビニと呼ぶより商店のほうがピッタリな店だ)で、それぞれが選んだアイスを買う。
店のおばちゃんは、患者さん達にとても親切だ。この日もコーラをサービスしてくれた。
ライターを買おうとする患者さんのことは優しく制止してくれた。
公園には黄色いブランコと青いすべり台と小さな砂場がある。
砂場の横のベンチに腰をおろしアイスを食べる。日陰になってはいるが充分に暑い。
「あんなに必死に頑張れ頑張れと言われたら、実力よりも速く走れっぺな。」と患者さんが言う。「あの大声で背中を押っぺされてんだよな。」と、もう一人も言う。
「あんなに一生懸命に応援されたら嬉しいだろうな。」
患者さんは2人とも「どうしてそれを選んだの」というような、木のヘラでホジホジするタイプのアイスを食べている。
こういう時に食べるアイスといったら、手に持って食べるアイス(コーンとか棒を持って食べるタイプの)と相場は決まってる。(こともないか)
私はフニャフニャと柔らかいコーンのソフトクリームを手にしたまま2人の会話に耳を傾けていた。
そして、ようやく頭の中でまとまった自分の感じたことを口にした。
「お2人はダメなんかじゃないと思います。さっき『もうダメだ』と言っていたけれど、私は全然ダメじゃないと思います。」と2人に伝えた。
「頑張れ」と懸命に応援する子らに胸を打たれ、その言葉を「良い言葉だ」と感じ、その言葉には「背中を押す力がある」と思えるということは、すごいことだと私は思ったのだ。
患者さん達は既に充分に頑張っている。自分ではない他の誰かに向けられた「頑張れ」という言葉で背中を押されたように感じ、嬉しかったのではないだろうか。
「頑張れ」という言葉は、もしかすると「今頑張っているということを認めてもらう」言葉でもあるのではないか。
だから私達3人は奇妙な恰好も気にせずに道を歩きながら泣いてしまったのだろう。
あれはきっと「喜び」や「嬉しさ」のすぐ近くにある気持ち(呼び名は分からない)からの涙だ。
「今日お2人と一緒に散歩して本当に良かった。私にとって、素晴らしい時間だった。」という内容を熱く語っているうちに、私のアイスは気温と私の熱量とですっかり溶けてボタボタと地面に落ちた。
それを気の毒に思った患者さんが、自分の食べかけのホジホジアイスを「ほら。」と差し出してくれたが、いくら私が食いしん坊でもさすがにそれは断ったのであった。
リレーでは、走り終えた子が応援に回り、さっきまで応援していた子も順番が来ると走って応援される側に回る。
人生もそんなものではないだろうか。
応援したり応援されたり、どちらの役割も回ってくる。
応援するときに大事なことは「一生懸命」であることだと思う。
そっぽを向きながら「はい、頑張れ頑張れー。」これは応援とは言えない。
また「頑張り」の結果によって、その人を責めたり嘆いたりする。これも応援ではない。
あの日の園児たちは、自分の友達が既に一生懸命に頑張っていることを理解しつつ、それでも更にスピードを上げてゴールを切って喜ぶ姿を思い浮かべながら「頑張れ!頑張れ!」と力一杯に背中を押していたはずだ。
あれこそが「頑張れ」の本来あるべき姿ではないだろうか。
精神科の治療の場でも、それは同じであろう。
患者さんに心を向けることなく、心から関心を寄せることもなく「頑張って」と無責任に言うことは当然すべきではない。
しかし「あなたはもう充分に頑張っていますよ」ということを認め、「その頑張りを、このまま何とか続けましょう」という意味合いで「頑張ろう」「頑張れ」と伝えることは決して悪いことではないのではないか。
精神科の患者さんの中には「過ぎる頑張り屋さん」が結構いる。
「頑張りが足りないからこうなった」
「もっと頑張らないといけない」
これは、引用文「1」の「我慢して」という部分が悪さをしているように思えてならない。
「我慢」が全く出来ないとか、「我慢」を全くしないというのも問題であるが、心と体を壊してまですることは、もはや「我慢」ではない。
する必要の全くない「我慢」であり、そんな「我慢」はしてはならないのだ。
さて、忘れかけていた引用文に戻ってみたい。
引用文にあった「3」の内容を覚えているだろうか。
「ある場所を占めて動かないでいる」
これは日常のなかでの使用頻度としては低いかもしれない。
幼い日の私が、親からは「買わないよ。」と軽く3万回は諭されていた「お出かけわんわん」というぬいぐるみの前で、1時間近く動かないことがあったそうだ。
あれはまさに引用「3」の「頑張る」に該当する。
それ以外はあまり思い浮かばない。
いや、シルバニアファミリーやリカちゃんハウス、チョコレートケーキやアイスクリームの前でも同じことがあったような気もする。
しかし。
私は思う。
もしかしたらこの「3」こそが1番大事な「頑張る」の意味なのではないだろうか。
私達1人1人が立つ、この小さなスペース。この場所を「自分」というもので占めて、誰にも何にも奪われることなく居座ることこそが最も大切な「頑張る」ということなのではないか。
「自分」がここに居座り続けること、それはもう充分に頑張っているということなのだ。
それでも「頑張れ」という言葉にプレッシャーや苦痛を感じてしまうのは、自分で自分の「頑張り」を認めてあげることが難しいからかもしれない。
だからもし、そういう人が近くにいたら「このまま一緒に頑張ろう。」と私は言ってあげたい。
そして私は人生のリレーで、走る番が回ってきても応援する番が回ってきても、どちらも誰にも負けないほど一生懸命に頑張ろうと決めているのであった。
ちなみに今使った「頑張る」は、引用文で言うと「2」に当たる。
どこまでも我を張って意志を通す、そんな「頑張る」だ。