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凸凹と私

出勤して私が1番最初にすることは、自分の仕事部屋の掃除である。
前日にも簡単な掃除は済ませて帰るが、朝も必ず掃除をする。
机やイス、パソコンのキーボードにマウス、ドアノブや引き出しの把手も念入りに拭き掃除をしてから消毒する。
最後に患者さんが座る椅子を丁寧に拭く。机を挟んで、私の斜め前に置かれた椅子だ。私の椅子よりも上等で、座り心地も良い。
その椅子に座り、私は部屋をぐるりと見渡してみる。

患者さんから私はどのように見えているのだろう。

「ふうっ」と小さく息を吐いて精神科看護師としての顔をつくる。
「よっ」と勢いをつけて椅子から立ち上がりドアを開け、面接を待つ患者さんに声をかける。

「お待たせしました、どうぞお入り下さい。」


私は3歳から保育園に通っていた。
当時の私は人見知りという言葉では足りないほどの人見知りで、家族以外とはほとんど口を聞かない子であった。
人から話しかけられると真っ赤な顔で下を向き、トレードマークのへの字口を固く結びダンマリを決め込むタイプであったと聞いている。
最終的にはさめざめ泣き出すような厄介な子どもであり、話しかけた方には後悔しか残らないという地獄絵図が繰り広げられていた。

一方、4歳年長の兄は、知らない人にも自ら話しかけてはペラペラと身の上話や世間話に花を咲かせていたそうだ。
時には工事現場のおじさんやスーパーの店員さん、それに交番のおまわりさんまで。
兄は人と話すだけでは飽き足らず、近所の乾物屋で飼われていた九官鳥のもとへしょっちゅう出向いては、九官鳥とも会話を楽しんでいた。

そんな兄は遊び方も独特であった。
例えばミニカー。手に持って走らせることはせず、箱の中のミニカーを几帳面にズラリと縦1列に並べ、寝そべってそれをウットリ眺めるという遊び方をしていた。

私は皆と遊ぶよりも1人遊びのほうが、外で遊ぶよりも部屋で本を読むほうが好きだった。
黒と白のフワフワしたウサギが描かれた表紙の絵本がお気に入りで、来る日も来る日も同じ本を読んでいた。
外遊びの時間も園庭の花壇の縁に寝そべって絵本を読み、ときどき絵本を腹の上に置いては花や葉っぱを裏側から眺めることに夢中だった。
半ば強引に砂場へ連れて行かれると、仕方なく1人でカッチカチの泥団子を作ったり、闇雲に穴を掘ったりしていた。

保育園の連絡ノートには「お昼寝の時間は泣いて嫌がりますが、ときどき教室や園庭の隅で大の字になって眠っていることがあります。」と書かれていた。
「大の字」というワードを入れたあたり、保育士さんの若干の苛立ちがうかがえる。

母の話によると、兄と私は保育園での昼寝を嫌がり、兄においてはパジャマに着替えることさえ断固として拒否していたそうだ。
兄は昼寝の時間になると園内をドタドタと走って逃げまわり、最後はロッカーの中に閉じこもったというので、なかなかアナーキーかつロックな兄である。(ロッカーだけに)

「保育園での昼寝嫌い」の他にも兄と私には「服のタグが苦手」「大きな音や人の多い場所が苦手」「動きがぎこちなく運動が苦手」「立っているとき体を左右にユラユラ揺らす」などの共通点もあった。

襟の後ろに付いているタグは、母に必ず切り取ってもらっていた。
どんなに小さなものでも、柔らかい素材のものでも嫌がった。
襟がピッチリしまった洋服も嫌がって着なかった。
私は特に靴下が嫌いで、常に「つま先の部分をみょ~んと引っ張って履き口を土踏まずあたりで止める」という半分脱ぎかけの中途半端な状態で着用するという強い拘りがあった。
ちなみに帽子も嫌いで絶対にかぶらなかった。

そう。私は拘りが強い子どもだった。
支度の順番や物の置き場所などに「私ルール」があり、その拘りを「まあ良いか」と手放すことが難しかった。

保育園でもコップやタオルをぶら下げる場所は「端じゃないと嫌!端っこ!端っこォォォォォォ!!」と強い拘りを見せた。
本棚の絵本も、自分の中で決めている並び順がズレてしまうと気になって仕方なく、いちいち直していた。

運動に関しては兄も私もからっきしだった。跳び箱には必ずお尻が引っかかり、マット運動ではマットの外へゴロリと転がり落ち、ダンスをさせればお手本とは似ても似つかない奇妙な動きとなり、周りの笑いを誘っていた。

運動会でのことだ。
足(膝)の間にバレーボールを挟み、ピョンピョン跳んでゴールを目指すという競技に参加した兄は、1ミリも前進することなくただひたすらその場で飛び跳ねて時間切れとなった。
何度も落としてしまうボールを股に挟む動作すらぎこちなかった。

そして数年後。
いつぞやの兄と同じように、股にボールを挟んだ私がその場でビンヨヨヨ〜ンと跳びはねる姿を見て、母は懐かしいやら可笑しいやらで写真を撮る手が震えたそうだ。

ここまで読んだだけで、勘の良い方は「あれ…この兄妹……」と何かを感じ始めたかもしれない。

まだしばらく私の幼少期の話が続く。

保育園での歌の時間のことだ。私は歌うことがとても好きで、家でも道を歩きながらも木の下に寝そべりながらも、いつも大きな声で歌っていた。
十八番は「けろっこデメタン」と「帰ってこいよ」だ。
あるとき保育園で「大きな古時計」を皆で歌うことになった。
皆は元気いっぱいに歌っている。
私はというと。

号泣していた。

この歌は好きじゃない、歌いたくない、と泣いてゴネた。
だっておじいさんが死んでしまうではないか。穏やかではない。

福島に住む、大好きなおじいちゃんが浮かぶ。
おじいちゃん家の「ボーン、ボーン」と大きな音で時を知らせる柱時計が浮かぶ。
「今は もう 動かない
おじいさんと時計〜」
歌っている場合か。

私の泣き声は皆の歌声の邪魔になるため、立ち位置は最後列の端っこへと移された。

そのかわり「あわてんぼうのサンタクロース」を歌う私は誰よりも生き生きしていた。
当時の写真には、カラフルなリボンのついた鈴を両手に持ち、満面の笑みで歌う私がいる。最前列のど真ん中だ。
しかも右手と右足を上げて浮かれたポーズまでとっている。
(ちなみに喜びを表すこのポーズは、四十路の今でも得意としている。)

保育園での私は他人とは極力しゃべらず、鳥の世話だけは積極的に行い、嫌いな昼寝は寝たふりでやり過ごし、見たことのないオヤツには絶対に手を付けず、夢中になった作業(塗り絵や穴掘り)を中断することは困難で、散歩に出れば興味のある方へ勝手にフラリと行ってしまい、1日に何度も家へ帰りたがり、とにかく保育士さん達を手こずらせていた。

あるとき園長先生に抱っこをされながら「かをちゃんは、かんじゅせいがゆたかでとてもゆにーくだね。」と言われた。
言葉の意味はさっぱり分からなかったが、大好きな園長先生に抱っこされたことがただ嬉しくて、私は真っ赤な顔をして「うん。」と頷いた。

小学生になった私は相変わらずマイペースを貫き、ひたすら薄ぼんやりしながら過ごしていた。
授業は国語と音楽以外は殆ど上の空で、窓の外や、前の席の子のクルンとした巻き毛を眺めたりして過ごしていた。

友達よりも先生よりも用務員のおじさんのことが好きで、用務員さんの姿を校庭に見つけるとウズウズしていた。
立ち上がり、先生のところへ行き訊ねる。
「校庭に行っても良いですか。」

良いわけがない。

用務員さんは、私のとりとめない話をいつも「うんうん」と笑顔で聴いてくれて、仕事の手伝い(という名の邪魔)をさせてくれた。
「勉強よりも、用務員さんといる方が楽しいのに」と、私は心から思っていた。

また授業中の私に「座っている椅子を後ろに傾け、椅子の後ろ脚2本だけでバランスを取る」という、しょうもない遊びのブームが訪れた。
後ろ脚2本だけで上手いことピタッと静止すると楽しかったが、なかなか成功せず、しょっちゅうド派手な音をたてながら椅子ごと転がっていた。
ここまで書いていて自分でも思う。

心配かつ非常に迷惑な子どもである。

さらに私は忘れ物の多い子どもであった。
名札、ハンカチ、体育着、絵の具や習字セット、提出しなければならないプリント類、洗濯した給食着など、挙げたらきりがない。

あれは3年生の頃だ。 
いつものように忘れ物を届けに来た母に向かって、担任教師が「お母さんが届けに来るから忘れ癖が直らないんです。お母さんのせいでもあるんですよ。もう忘れ物を届けないでください。良いですね!」と、強めの口調で告げた。

その瞬間、私は担任の尻をグーで思い切りぶん殴った。

「お母さんを悪く言うな!!」
いったい誰のせいで母が注意されているのか、自分の忘れ物の件すら忘れているのだから手に負えない。

口うるさくキャンキャンと甲高い声で話す年配女性の担任を、私は元々好きではなかった。
しかし好きではないからと言って、尻にロケットパンチをお見舞いして良い理由にはならない。
当然その場で母にしこたま怒られ、担任に渋々謝り、家でもう一度母に怒られた。

それでも懲りずに、私は色々な物を色々な場所に忘れていた。
ときにランドセルや自転車をどこかに忘れてくるという大技も披露していた。
日が暮れてからも友達が一緒に探してくれて、一緒に親に謝ってもくれた。

そう。こんな私にも友達はいた。
友達はいたが、私は大人数で何かをしたりどこかへ行くことは苦手であった。真剣に聞いているつもりでも、皆の会話が途中からさっぱり分からなくなっていた。

それよりも1人で木々の間を歩き回り、風が葉を揺らす音に耳を澄ませたり、大きな木の幹に抱きついて頬をベッタリつけているほうが居心地が良かった。耳を押し付けて木の中の音を聴こうと一生懸命だった。
好みの木を見つけては頬や耳をくっつけていた私は、皮膚科にお世話になることも多かった。
しょっちゅう顔がかぶれていたからだ。

そう言えば皮膚科の先生は当時からおじいちゃんのような見た目をしていたが、40年近く経った今も全く同じ外見で現役で働いている。
子ども達に大人気の先生だ。
今でもたまにその先生に会うのだが、「かをちゃん、さすがにもう木に抱きついていないか?」とからかわれる。
私は笑いながら「さすがにねえ。」と答えるが真っ赤な嘘である。

小学校の卒業文集の「お世話になった先生」という欄に、私は迷わず用務員さんの名前を書いた。
(皮膚科の先生の名前も書くべきであった。)

そうして私は中学生になった。

中学生になっても私は相変わらず我が道を行き、何かしら忘れ物をしていた。
授業中のぼんやりも変わらなかった。

社会と数学の時間は「居眠り」の時間となった。
あまりにもよく眠るため、養護教諭から「自宅での睡眠時間をしっかり確保するよう心掛けましょう。夜更かしはしないように。」という指導を受けた。
ところが、当時の私は夜の8時から朝7時までしっかりと寝ていた。
拘りにより、毎日夜の7時45分には必ず布団に入っていた。
8時には眠りたいため、布団に入ってから15分のゆとりを保たせる粋な演出である。
私は家族の中で1番先に寝たかった。
夜が怖いので「起きている最後の1人になりたくない」という思いから早く寝ていたのであった。
そのため養護教諭の指導は全くの見当違いと言える。
私はただ授業が退屈で寝ていただけだ。

中学ではテニス部に所属していた。運動神経の悪い私が、不思議なことにテニスにおいては謎の才能が爆発していた。
試合でもますまずの成績を残した。
部活は楽しかったが、顧問のオジサン先生と私は徹底的に相性が悪く、しょっちゅう衝突していた。

今の時代なら完全にアウトであろう暴言や暴力オンパレードの教師であった。
試合に負けた友達が「このウスノロ」と呼ばれビンタをされた時、私は咄嗟に顧問めがけて足で砂をかけた。
予想をはるかに上回る大量の砂が顧問の胸元あたりまでかかり、次の瞬間には私も平手で打たれた。
鼻血が出るまで叩かれたが泣きもせず、私は尚も顧問に砂をぶっかけて応戦していた。

のちに職員室で説教をされた。
鼻の穴にティッシュを詰めた私は顧問の話など全く聞いておらず、机の隅の「ふるえ止め」と書かれたシールが貼られている薬瓶をじっと見ていた。
「ふるえ止め」という文字自体が震えていることに気づき「止まってないやんけ。」と心の中でツッコミを入れていた。

よりにもよって、居眠りの時間である社会科の教師が、中学3年間ずっと私の担任だった。父と同じ歳の男性教師で、私はこの教師には珍しく懐いていた。
他の教師から問題視されやすい私の言動を、この先生だけは「何故そう思うのか」「何故そうしたいのか」「一体何なんだ(笑)」と丁寧に聞いてくれた。
私の話を聞いては「あっはっは!困ったねえ。」と、全く困っていない顔で笑っていた。

卒業アルバムの寄せ書きには、この先生から「豊かな感受性と、君らしい個性をそのままに。」と書かれていた。

高校、看護学校…と私の学生生活は続いていくが、この先も殆ど同じようなエピソードばかりである。
とは言え成長していくにつれ、周りと合わせることも身につけていった。
忘れ物も工夫により減った。
必要な物の殆どを学校のロッカーや棚に置きっぱなしにしたのだ。

成績はバラつきが大きく、国語と英語は勉強を一切しなくとも何故か上位に入っていた。数学、理科は勉強しても下位チームの常連だった。とくに数学に関しては我ながら目を見張るものがあり、テストの点数は常に1ケタだった。

また、コミュニケーションで言うと、自分にとっては「頭の中で考えていたさっきの続き」を話し始めただけなのに、周りから「何を話しているのか分からない」と笑われ「なんでだろう」と不思議に思っていた。

そして小学生の頃からそうであったが、高校生になっても学校行事が嫌いだった。
周りの友達がはしゃいでいる遠足や修学旅行、運動会や合唱コンクールに学祭、あらゆる行事やイベントの前に私は必ず熱を出していた。
「いつもと違う」が嫌いだった。
というよりも「いつも通り」が好きだった。
いつもと違うことは私にとって「楽しさ」ではなく「不安」や「緊張」でしかなかった。

そして高校生の頃には「自分のペースや拘りを貫くと、どうやら私は周囲から浮いてしまうらしい」ということに薄っすら勘づいていた。

しかしそれをどうすることも出来ず、どうにかする気もさらさらなく、気づいたら看護師になっていた。


そして今、精神科看護師として働いて20年以上が経つ。

いつからか、発達障害に関する相談がものすごい勢いで増えて来た。
ご本人からの問い合わせもあれば、ご家族や職場からの相談というケースもあり、実に様々である。

ふと思う。

発達障害の人は増えているのだろうか。

それとも社会的に「発達障害」というものが広く認知されてきたことで相談件数が増えているのだろうか。
そもそも発達障害は、全てを一括りにして「精神疾患」「障害」と考え、治療対象となるべきものなのだろうか。

発達障害とは、生まれつきの脳の障害のために言葉の発達が遅い、対人関係をうまく築くことができない、特定分野の勉学が極端に苦手、落ち着きがない、集団生活が苦手、といった症状が現れる精神障害の総称です。

メディカルノートより

症状の現れ方は発達障害のタイプによって大きく異なり、自閉症スペクトラム障害、注意欠陥・多動性障害(ADHD)、学習障害、などさまざまな障害が含まれます。幼少期または学童期から症状が現れますが“変わり者”“怠け者”という誤った認識がなされ、見過ごされているケースも多いと考えられています。

メディカルノートより

変わり者、怠け者。
このどちらも言われたことがある私だ。
変わっているつもりも怠けているつもりもない。

以前、職場の心理士さんに「発達障害の特徴てのを読んでたらさ、私の子ども時代がほとんど当てはまってたの。ビックリしちゃった。私も発達障害の傾向があるのかね。」と言うと「え、今更?」と驚かれた。
「幼少期のエピソードを聞いた時、完全にそうだと思ってたよ。凸凹が大きそうだよなあ、て。」と。
さらにこう続いた。

「かをちゃん、生きづらくない?」


帰ってから母に「お兄ちゃんと私の子ども時代だけどさあ、少し変だな…て思ったことなかった?」と聞くと「ない。」と即答された。
「え、1回も?本当に?だって2人とも何かヘンテコじゃない?」と尚も食い下がると「うーんそういうものだ、て思ってたからなあ。」と返ってきた。

そういうもの。


今の時代だったら、もしかすると兄や私に携わった誰か(保育士さんや学校の先生)が「この子は発達障害の可能性があるので、専門の医療機関へ受診を」と勧めたかもしれない。
そのとき母はどうしただろうか。


「ではこちらの椅子にお掛け下さい。
困っていることを何でも自由にお話し下さいね。」
そう伝えながら、先ほど掃除をしたばかりの椅子を患者さんに勧める。

「発達障害なのではないか、と職場の人に言われて…」
「忘れっぽさやミスの多さが異常だと…治療を受けるよう言われて…」
机を挟んだ向こう側で患者さんが泣きながら、ゆっくりと話し始める。

この患者さんと私を分けているものがあるとしたら、それは何だろう。
泣いている患者さんを見つめながら「私がその椅子に座っていたかもしれない。」と考える。
朝、私が丁寧に掃除をした椅子だ。

先も述べたように社会の認識が変わったこともあるだろう。私の幼少期には「発達障害」という言葉は認知されていなかった(と思う)。

そのため兄も私も「変わった子」「とんでもなくマイペースな子」くらいにしか思われていなかった。

また、「この子はそういうものだ」という受け止め方をして、凸凹を楽しんで見守ってくれる大人(家族や親戚、用務員さんや一部の教師)がいてくれたことも大きいだろう。

もちろん疾患や症状の程度による部分は大きく、本人がつらい思いをしている以上は治療の対象であることは間違いない。それを否定する気はない。

ADHD(注意欠陥多動症)に関しては専用の治療薬が顕著に効き、「今までずうっと頭の中にモヤがかかったようだったのが、嘘みたいにハッキリした。」「集中力が上がりケアレスミスが減った。」と話される患者さんもいる。
「職場の人に自分の特性を話したら、関心を持ってもらえて嬉しかった。」と聞いたときは私も嬉しかった。

私が「本当に治療を要するのだろうか」と感じるのは、「凸凹を平らにならしたい」つまり「周囲の人と同じように」とか「周りから浮かないように」といった想いからの相談事例である。

その凸凹は本当に平らに近づけなければいけないのだろうか。

凸凹を無理やり平らにしないと適応できないような環境に居続けなければならないだろうか。
1人1人みな違う人間なのだから、能力や感性にばらつきがある方が自然なのではないか。

誰かの凹(苦手や弱点)は他の誰かの凸(得意や強み)が補えば良いことであり「障害」の有無に関係なく、私達は自然とそうして生きているはずである。

それなのに「発達障害」という「病名」がついた途端、ザワザワざわざわザワワざわわ…とざわつき始めてしまう。

凸凹の大きさに差はあれど、誰もが凸凹しているのではないか。
真っ平らだったり、キレイな円グラフのような人なんているのだろうか。
居たとしても人としての「愛らしさ」や「面白み」に今ひとつ欠ける気がしてならない。

凸凹は魅力でもある。

患者さんとの対話を通じてそう感じる。
凸凹にも、その人らしさが色鮮やかに現れている気がする。


患者さんから私はどう見えるだろうか。

すました顔で白衣なんて着ているが、未だに朝の支度の順番は決まった通りじゃないと気持ち悪い。
ToDoリストは欠かせない。
貴重品や持ち物の確認行為は2回。
映画や電車で座る席は必ず端っこと決めている。
数字と曜日とアルファベットには色が伴って浮かぶため鬱陶しい。
特定の音が異様に大きく聞こえて耳がひどく痛む。
不安になりやすく緊張も強い。

同僚の心理士さんの言葉を思い出す。

「かをちゃん、生きづらくない?」


生きることを誰かと比べたことがないのでよく分からないが、自覚として「生きづれえなあ」と思ったことはない。
そもそも一生懸命に生きるということは、誰にとっても大変なことだろう。

私には「もう〜!頼むよ!!マジで!!」と言いながらも、凹を補ってくれる仕事仲間がいる。
バランスの悪い、面倒な私の凸凹を楽しみながら、懲りずに付き合ってくれる友人もいる。
凸凹を「そういうものだ」と気にも止めない家族や親戚に恵まれている。

いつか園長先生が言ってくれた「豊かな感受性」は、時々私の心を傷つきやすくすることもあるが、概ね私の強い味方となってくれている。
精神科で働くうえで、感受性は重要だ。

凸凹や繊細さに悩む患者さんが、自身の凸凹も繊細さもどうか嫌いにならずに過ごせる場所を見つけられたら良いなと願う。
そして私は私でこれからも凸凹でおかしな形のまま、患者さんのお手伝いをさせてもらえたら良いなと思う。

だって私は、いや、私たち1人1人が皆「そういうもの」なのだから。







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