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雨の日、患者さんと

それは私がナース1年目の秋のこと。
まだまだフワフワとした働き方で、何一つ自信も持てずに目の前の業務をこなすだけで精一杯だった頃の話だ。
看護師長と1人のドクターに呼び出され、ある患者さんを受け持ってみないかと打診された。

入院患者さんの受け持ちに関しては、男性患者さんは男性看護師に、女性患者さんは女性看護師に原則として振り分けられていた。

それをわざわざ打診してくるのはおかしい。
それも師長とドクターで。

こいつぁ、何かある。絶対。

私はこう見えて警戒心と猜疑心が強い。
とりあえずどんな患者さんなのか聞いてみた。

その患者さんは40年近く閉居(引きこもり)生活を送っていた50代の男性。
「近所から嫌がらせをされている」
「命を狙われている」と被害的な妄想が強くなってきており、今回ようやく入院することに納得した。

40年近い閉居。
家族以外との関わりなし。
想像もつかない生活である。

受け持ってみたいという気持ちもあったが1つ引っ掛かった。
その患者さん、男性て言わなかった?
なんで私に?
念のため師長とドクターに尋ねると二人は顔を見合わせて答えた。

「なんか楽しくなりそうだから。」

そんなヌルっとした理由ではあったが、私はその患者さんを受け持つことに決めた。

入院当日、外来の診察室までお迎えに行くと身を固くしてオドオドした表情を浮かべたオジサンが椅子に座っていた。
オジサンはボロボロの紙袋を1つだけ両腕に抱きかかえていた。

挨拶をしても無反応だったが、病棟へ案内する旨を伝えると意外にもすんなり立ち上がり応じてくれた。

病棟へ向かう途中「今日は良いお天気ですね。」だの「お部屋は4人部屋です。みんな優しい人ばかりですよ。」だの話しかけてみたが彼は私を一切見ようとせず、1言も発することもなかった。

病棟の入口である重い鉄扉を開けて廊下を進み、病室に案内する。
荷物を棚にしまうよう促したが、彼は紙袋を抱えたままベッドの端っこに座り動かなかった。
しばらく様子をみることにして一旦退室した。
……ハァ……手強そうだ。
ここまでで既にどっと疲れた。
早くも受け持ったことを後悔し始める私であった。

30分ほど経ち、採血のため訪室すると彼は先ほどと1ミリも変わらず同じ姿でそこにいた。
「あれ!?まだ荷物そのままでした?少しずつ荷解きしましょうね。」と紙袋に手を伸ばしたそのときあごに稲妻が走った。

私は彼から見事なアッパーカットをお見舞いされたのだ。

「おおさかぁァァァァァァァァァ!!!!!

大丈夫かァァァァァァァァァ!!!!!!!」

私のことを普段から何故か「おおさか」と呼ぶ同室の他患が駆け寄ってくる。
(ちなみに私の名前とも出身地とも1ミリも関係ない呼び名である)
「しっかりしろ、おおさかァァァ!!
オメェ、おおさかに何てことしやがる!!
俺が相手してやるこの野郎!!」

何だこの状況は……。カオス………。
あごの痛みをこらえながら私は気が遠くなるのを感じた。


そして彼は食事も摂らず薬も飲まず、東に検査があると呼ばれては全力で拒否し、西に入浴があると呼ばれては全力で逃げ、誰とも口をきかず、ソウイフモノニワタシハナリタイ。
(ナッテルヨ!)
という宮沢賢治状態に仕上がっていった。

担当医とは「彼がここを安心できる場所だと認識し、我々を信頼してくれるまで根気強く関わろう。」と決めていた。

それは分かる。
でもその方法が分からないのだ。

食事を彼と一緒に摂ってみようと試みたが、私が斜め前に座っただけで脱兎のごとく逃げ去っていく。彼の足が速いことだけは分かった。
仕方なくおにぎり🍙を作りベッドに置いてみると、いつの間にか食べていた。
野生か!!と私は思った。

あの手この手でコミュニケーションを図ろうとしたが、彼にはまるで私が見えていないかのようにことごとくスルーされた。

内服は頑なに拒否し、口に入れても後から吐き出して流しに捨ててしまっていた。
「飲みたくないのであれば飲まなくて良い。飲みたくない理由を教えてほしい。」といくら伝えても、彼は相変わらず目も合わさず言葉も発さなかった。

まだ経験の浅い私だ。
そんな彼にだんだん腹が立ってきた。

そしてあるとき事件が起きた。
「おおさか!!大変だ!!」と先ほども登場した他患がステーションに飛び込んできた。
どうやら彼が窓を開け、椅子を使い鉄格子を力ずくで曲げて外へ出ようとしているらしい。

絶対に無理である。


私が駆けつけたとき彼は窓と鉄格子の間の狭いスペースにびしょ濡れで座り、わずかに歪んだ鉄格子につかまっていた。
その日はざあざあ降りの雨だった。

「無理だったでしょう?それ、ものすごく固いんだよね。手は大丈夫でしたか?」
彼が答えないことは分かっていたが声を掛けた。
彼は前を向いたまま手のひらだけを私の方へ向けた。擦りむけて血が出ていた。
処置をするので部屋の中へ入るよう促すが応じない。
私は決めた。

もう良い。こっちから行ってやる。


処置セットを持ち私も大雨の中へ乗り込んで行った。
彼はギョッとした顔で私を見たが構わず横に座った。避けられてもまた近づいた。
引っ込めようとする手を強引に抑えて処置を済ませる。

さあ問題はここからだ。
勢いで乗り込んできたは良いが気まずい。


仕方なくそのまま彼と一緒に雨を見ていた。
彼にはこの景色がどう見えているのだろう。
今どんな気持ちでいるのだろう。
ひとりで引きこもっていた長い間、どんな気持ちだったのだろう。
考えていたら何故か泣きたくなってきた。

私は彼に「もしも何か苦しいのなら、その助けになりたいと思っているが何をどうしたら良いかサッパリ分からない。それがつらい。」と正直な気持ちを伝えた。

沈黙が続き雨音だけが聞こえていた。
(いや、正確に言うと背後から時々「おおさか!気をつけろ!油断すんなよ!」という声は聞こえていた。)

雨に打たれ続け白衣もずぶ濡れとなり「待てよ。今日の下着は何色だろう…完全に透けているだろうな…どうか変な下着じゃありませんように…」と心配になってきた頃、彼に「ねえ寒くない!?看護師さんもう限界!風邪ひいちゃうよ。」と告げた。
すると。

彼はハッとした顔をし、何か小声で口走ったあと私の肩を勢いよく押した。
また殴られるのかと思い身を固くしたが、そうではなかった。
彼は私を室内に押し戻そうとしたのであった。

先に室内へ入った私は外にいる彼に手を伸ばしてみた。
迷いながらも彼はおずおずと私の手を握り、室内へと戻ってくれた。
初めてしっかりと握った彼の手はゴツゴツしていて、さっき貼ったガーゼは雨でもう剥がれそうだった。

この一件から数日たったある日。
彼が初めてステーションにやってきて、私のことを指さして手招きした。
「どうした?」
「…おっかねえ。」
「何が?」
「…わかんねえ。おっかねえ。薬のむ。

え!なんだって!?


このとき、すでに入院してから1ヶ月以上も経っていた。
あの雨の日がきっかけとなったのか、それともたまたまなのか知る由もないが彼は治療を受け容れるようになった。

服薬が規則的となり、彼は見違えるほど具合いが良くなった。
表情もやわらかくなり、笑った顔は愛嬌があった。
担当医と私以外の職員にも自分の意思を表出できるようになり、私はそのことが嬉しくもあり馬鹿げた話だが少し寂しくもあった。

彼は病棟から作業所へ通えるまでに回復し、独居可能な状態となり退院していった。
その後も規則的に外来へ通院し、社会生活も問題なく継続することができた。


彼との関わりはまちがいなく私の看護の「原点」となっている。
患者さんへの対応に躓いたとき、患者さんのことや自分のことを諦めてしまいそうになるときには、彼と一緒に降る雨を眺めた日のことを考える。
彼が握り返してくれた手を思い出す。
そうするとまた顔を上げ、前を向いて踏み出すことができる。

ただあの日のことを思い出すと、もれなく「あの時どんな下着を身に着けていたんだろう…」という不安まで一緒に思い出されてしまうのでそれには少しだけ困っている。