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「お気持ち」の値段


「こんな時どうしたら良いのだろう。」
生きていれば誰もが一度は抱いたことのある気持ちだろう。
私など「どうするー!!」「どうしたら良いー!!」は日常茶飯事であり、もう多少のパニックには慣れっこである。

「どうしたら良いんだ…どうしよう…。
こういう時どうしたら良いのか、どうするべきなのか皆目検討もつかない…。
なぜ学校で教えてくれなかったのか。
分数や開脚前転なんかより、こういう時の対処法こそ教えておくべきではなかったのか。」
そんな風に考えることがしょっちゅう有る。
ちなみに40年以上生きているが、開脚前転を披露する機会なんて未だに1度もない。
おそらくこの先も開脚前転などしないまま一生を終えるだろう。

開脚前転の話は埃っぽいマットと共に丸めて体育倉庫に置いておくとして。

「どうしよう」のプロである私が最近直面した「どうしたら良いんだ…」話を書こうと思う。

私はこう見えて寺社巡りが好きだ。寺社に行くと体と心の調子が明らかに良くなる。めきめきグングン元気になるのだ。
寺社には緑が多いからかもしれない。

先日も都内の寺社をいくつかまわり、心も体もどんどん軽くなっていくのを私は感じていた。
(翌日の体重はカツ丼&蕎麦セットを食べたので重たくなっていたが。)
そして私にとっての寺社巡りは、御朱印を頂くことも楽しみの一つである。
その日も数々の美しい御朱印を頂きルンルンしていた。

しかし、このときの私はまだ知らない。

この僅か数十分後に「これは一体どうしたら…」に直面することを。

とある神社でのことだ。
参拝を済ませ、御朱印を頂くために社務所へ向かった。
大体は御朱印の受付といったら社務所である。
そう相場が決まっている。

ところがこの社務所の受付の窓はぴっちりと閉まっており、中を覗くが誰もいない。
木の枠で囲まれた小さな窓には「お声をお掛け下さい。」と書かれた紙が貼られていた。当然と言えば当然だが、迫力のある達筆だ。
誰も居ないのを良いことに私は辺りをジロジロと見渡す。そして御朱印の見本や御守、御札といったものが一切置かれていないことに気づく。
「はて?ここが受付ではないのかな?」と不安になる。
私は再び「お声をお掛け下さい」の紙に目をやる。

まず、もうこの「お声をお掛け下さい」という言葉が私にとっては軽く「どうしたら…」である。
そう。私は意外と人見知り&恥ずかしがり屋だ。

「……こんにちはー。」
カラカラカラと受付の窓を開けながら社務所の中へ声を掛ける。
すぐに奥の方からスラリとしてハンサムな男性の神職さん(という呼び方で良いのだろうか)が出てくる。
袴姿でしずしずと歩いて来られる。
美しい所作だ。

私は緊張しながらも「御朱印は書き置きのものになりますでしょうか?」と訊ねる。
「いえ、御朱印帳をお持ちでしたらお書きできますよ。」との返答に「え!本当ですか!わーい!やったあ♪」と、その場で小さく飛び跳ねる。
そう。私は人見知りだがお調子者でもある。
コロナ禍になってからだろうか。多くの寺社で御朱印は書き置きのものとなってしまった。
そのため、その場で御朱印帳に直接書いて頂けるというのは貴重なことである。

御朱印帳をうやうやしく受け取ると、ハンサムは社務所の奥へと消えて行った。

(はー良かった。緊張したけど、ちゃんとお声掛けできたぞ。)とウキウキしかけた瞬間、あることに気づく。

ここの御朱印、いくらなんだろう。

どこにも書いてないではないか。
初穂料とやら。
ちなみに私は御朱印巡りが好きなくせに「初穂料」の読み方も知らない。
「はつほりょう」6割、「しょほりょう」4割でその日の気分で使い分けている。
恐らくどちらかで合っているだろう。

いや、読み方は今はどうでも良い。
そんなことよりお値段である。
「初穂料が書かれていない」イコール「寿司屋で言うところの時価」みたいなものなのだろうか。
「時価」の意味も理解はしていないが「ものすごく怖いこと」ということくらいは私にだって分かる。
ちなみに私は「スシローはお値段も安心で美味しい」ということも分かっている。

「あのハンサム神職め…ハンサムであることを武器に法外な値段を請求してきたらどうしてやろうか。」と、神様が聞いたらさぞお嘆きになるようなことを私が考え始めた頃、私の御朱印帳を持ったハンサムが戻ってきた。

「こちらになります。」
くっそう…爽やかな笑顔だ。きれいな目をしていやがる。
しかも御朱印も美しく、墨の香りが何とも清々しい。

しかし、だからと言って法外なボッタクリに屈するわけにはいかない。
(注:まだ請求も何もされていない)

私はお財布を握りしめ、ハンサムの目を見る。
「さあ、来い。こちらはもう腹を括ったぞ。どんと来ぉぉい!!」と心の中で唱えると、目の前のハンサムが何か言った。
いかん、聞き逃した。

「え?」と表情だけで問い直すと、今度はハッキリ聞こえた。

「こちらでは、お代はお気持ちで頂いております。」

え、なんだって?
ちょっと聞き慣れない日本語だ。

普段の生活では、ほぼピターっと止まっている私の脳ミソが突然フル回転をし始めた。
「どうしようどうしようどうしよう。どうしたら良い…考えろ考えろ…いや、考えるな感じろ……。」
非常に危ない。
これは「ふだん運動なんて何もしていないお父さんが、子どもの運動会で全力ダッシュをキメて肉離れを起こす現象」と似ている。
脳ミソを止めないとミソ離れが起きる。

私は脳ミソを宥め、なるべく冷静になるよう呼びかける。
「お代はお気持ち…お代はお気持ち…この歓びをお金に換算すれば良いだけ…」

……できるかァァァ!!

だって歓びプライスレス。
感情にお値段をつけるなど、難しいお話である。

どうしよう…どうしたら良いんだ…
こんな時はこんな時は…えーと…

ハンサム神職が見守る中、私が得意のパニックを起こしかけたその時「相場」という言葉がふと頭をよぎる。
「そうだ。相場があるじゃないか!御朱印の受付は社務所と決まっているように、御朱印のお値段にも相場があるじゃないか!」

その日、他の寺社で頂いた御朱印の初穂料は大体どこも五百円であった。
これまで頂いてきた御朱印も大体そんな感じだったと思う。
季節限定のものなどは、五百円プラスαといったところだ。

お財布から五百円玉を取り出そうとして手を止める。
「待てよ…そのまんますぎるのでは…」
このご時世に嫌な顔ひとつせず、あれほど美しい御朱印をその場で書いて下さったにも関わらず、他の書き置き御朱印と同じ五百円というのは如何なものか。

ならば、と千円札を手に取ろうとして再び手が止まる。
「鼻につきやしないだろうか…」
千円が鼻につくほどの値段かどうかは別として、小銭からいきなり紙のお金に変えるというのも嫌らしい気がする。

こうなってくると少なくても多くても不正解な気がする。
そもそも初穂料の正解て何だ。

なかなかお金を払わない私をどう思ってるのだろう、とハンサムに目をやるとガッツリ目が合った。
ニコニコしている。

いっそ聞いてしまいたい。
「兄ちゃん!皆ナンボほど払いますのん?…えっ、ホンマでっか!」
こんなときには関西弁が適している。

私の中のエセ関西人が覚醒しかけたその瞬間「ブフォッ!」とハンサム神職が吹き出した。

「ごめんなさい、申し訳ございません!」と、若干あたふたしながら手を口に当てて笑っている。
さらに「あのwもう本当にwwお気持ちでw大丈夫ですよwww」と私に告げた。
彼は私の葛藤を察していたのだ。
もしかすると心の中では「や、もうマジで。サッと払って。マジ頼む。」と思っていたかもしれない。
あの気まずい葛藤の時間を、私は「5分ほど」と記憶しているが、もしかして実際は2時間くらいかかっていたのではないか。
それならごめんね、である。

神職さんの言葉に私も何となくつられて「えへへ…でへっ。」とだらしなく笑い、やはり相場である五百円を取り出してお代入れに乗せた。
せめてピカピカの五百円玉を選んだ。
ズボラな私のお財布の中は、小銭がジャラジャラ入っている。
あることを思いついた私は慌てて「あっ!ちょっと待って下さい!」と神職さんに声を掛けた。
百円玉を2枚、五十円玉を1枚、十円玉2枚もお代入れに乗せる。
そして一円玉も「いち、にぃ、さん、しぃ……あったあった!」と7枚置いた。あのとき私が数え間違いをしていない限り、私の感謝と歓びの値段は¥777になったはずである。

いつも誰かのための何かしらを祈ってくださっている神職の方々へ贈る、縁起の良いスリーセブンだ。
3つ並んだ幸運の「7」を、神様にも喜んで頂けると良いのだが。


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