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【掌編】光を送る

 目に見えないからこそ願うことが大切なんだ、とあの日彼は言いました。

 私と母は二人でアパートで暮らしていました。あの頃、父が病気で亡くなったことで生活が変わり、転校で友達とも別れることになって、私は毎日が悲しくて堪りませんでした。そんな私を元気付けるために、母が親戚から貰ってきたのが柴犬のコタロウでした。
 大家さんに内緒で飼っていたのですが、室内でトイレをしちゃうと畳が汚れて引っ越す時にお金がかかるから、絶対に外でするようにコタロウをしつけていました。ある日、二人とも一日中留守にしなくてはいけない用事があって、夜遅くに帰ると鍵を開ける前からドア越しに「クーン、クーン」とコタロウの困ったような小さな鳴き声が聞こえてきました。急いでドアを開けると、コタロウが家族に会えた嬉しさと限界まで我慢していた状態が混ざり合って爆発して、凄い勢いで尻尾を振りつつ撒き散らしながら私に飛びついてきました。私は靴やズボンを汚されて慌てたのですが、そんなコタロウが可愛くてより一層好きになりました。

 中学三年頃に母が新しい父と再婚することになって、再婚することになってというか私に黙って既に再婚していて、また突然引っ越しをすることになりました。
 私が嫌そうにすると母は「今度は一軒家だから部屋も広いよ」と穏やかに諭したり、突然不機嫌になって「私は幸せになっちゃいけないの?」と声を荒げたりしました。
 母と言い合いになると私は自分の気持ちを上手く言葉にできなくて、唯一言えるのは「私とお母さんは家族じゃないの?」ってことだけでした。でも母は当然のように「家族に決まってるでしょ」と言ってそれで終わりで、私は「じゃあどうして」って言うんだけれど、自分の気持ちを蔑ろにされたことが悔しくてその後の言葉を続けることができませんでした。
 新しい父は変な人ではなくとても優しくて、そこは安心だったのですが、新しい家で暮らすようになると母はその人といつも一緒で、家の中で私だけが取り残されているような感じでした。私は自分の居場所を奪われたようで寂しくて、自分の家にいることが何よりもしんどくて、辛くなった時はいつもコタロウと散歩に出掛けていました。

 小高い丘にある展望台まで散歩するのがコタロウとのお決まりのコースでした。展望台にはベンチが設置されていて、そこから町の遠くまでを一望することができました。
 家に居たくない時は決まって展望台のベンチに座って、町を眺めながら自分の感情を少しでも落ち着かせようとしていました。少し気分が楽になる時もありましたが、「ここではない何処かへ行きたい」とか「早く大人になりたい」とかいつまでも色々な感情が湧き上がって、それが渦巻いて益々辛くなってしまうこともありました。
 その日は自分を落ち着かせることが難しく、気が付くと辺りは真っ暗になっていました。夜空を見上げると星々は綺麗に輝いていましたが、月はどの方角を探しても見つかりませんでした。
 今夜は新月かと気づくと、何かで聞いた「新月に願い事をするとその願いは叶う」という迷信を思い出しました。でも私は今ここが耐えられないくらいに苦しくて、それに願いが叶うなんて子供じみたように感じられて、自分の願いを考えることすらしませんでした。
 怒られる前に早く帰ろう。そう思って帰ろうとすると、どうしたことかコタロウが座り込んだまま動こうとしません。何度帰るよと呼びかけたり引っ張ったりしてもコタロウは頑なにその場から離れようとはせず、ただ私をジッと見つめていました。
「目に見えないからこそ願うことが大切なんだ」
 彼の目を見ていると段々そう言っているような気がして、もちろん犬だから言えるわけもないんだけれど、それは言葉にできないからこそ真っ直ぐに私の心へと届いてきました。
 私は彼に言われた通りに願うことにしました。それは今にして思えば願いというより祈りに近かったかもしれません。
 きっと先では今よりも少しでも安心できて、何処かで大切な人と笑い合ったり励まし合ったり、そんな大切な日々が両腕で抱え切れないほど増えていますように、と祈りました。

 あれから幾年かの時が経ち、私はあの時の願いのいくつかを叶えられたと思います。
 大学時代の友人と何気ないことで盛り上がったり、仕事を頑張った時はちょっと良いご飯を食べたりと、側から見ると何でもない日々を過ごしています。でもたまに振り返って、その何でもなさが輝いて見えたとき、私はここまで来れて本当に良かったと思えます。
 だからね、コタロウ。今度は私、誰かのために祈れる人になりたい。あの時は自分のお願いをするだけで精一杯だったけれど、次は大切な人やしんどさを抱えている人の幸せを祈れるような人になるね。
 だってあの時、コタロウは私のために祈ってくれてたもんね。ありがとう、コタロウ。ずっと忘れないよ。

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