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【短編】純潔ラーメン

 これは私が旦那の浮気相手を食べちゃうまでの話なんだけど、別に旦那と痴情のもつれを発端に狂った私が浮気相手を殺害しちゃって、ついでに幼い頃から秘めてた食人嗜好を満たしてしまえって話ではないから安心してほしい。私の世界からすれば思い立ってラーメンを作って食べただけ。でもなぜ浮気相手を食べちゃうことになるのかを説明するには、私が中学に入学した時まで遡らなきゃならない。だってこれは世界の対峙についての話なんだから。

 中学一年の初日、新しい制服に袖を通し、スカートの折り目を少し握りしめながら登校する私は、これから新たな学校生活を上手くやっていけるか不安だった。だって女子中学生にとって何より大切なことは、周囲から浮かずに異分子にならないことだし、それは勉強や部活動よりもはるかに難しいことだから。
 今日一日は周りの様子を伺いながら微笑みや愛想笑いを乱発して愛嬌を振り撒いていくしかないと決心しつつ、私は自分のクラスの扉をえいやと開けた。しかしその私を待ち構えていたのは、生徒の誰かの机の上にある柑橘類だった。私の不安と緊張は一気に消し飛び、頭の中は熟してない青い小さな蜜柑のことで一杯になった。きっと気を衒った誰かが周りの生徒にかますために持ってきたんだろう。蜜柑を持ってきて何が面白いんだよと私は徐々に腹が立ってきたし、熟してない蜜柑を見て口の中が酸っぱくもなっていた。でもよく見るとそれは熟してない蜜柑ではなくて、すだちだった。
 黒板に張り出された座席表を確認すると、私の席はあろうことかすだちの置かれた机の隣だった。サイアク。徐々に近づけば近づくほど、それは誰かの机の上で堂々と柑橘然としていた。担任が来る前に早くしまえよとイライラしながら自分の座席に着席し、横目でチラチラとすだちを盗み見していたが、いつまで経ってもその席の生徒は現れなかった。
 やがてすだちの席以外の生徒が全員着席し、担任が教室にやってきた。私は初日から怒られるのとかマジ勘弁だわって思ってたけど、担任は挨拶を済ませると何事もないかようにホームルームを始めた。
「私の席の隣が見えないわけないよね? おーい、ここですよー!」って立ち上がって叫びたかったんだけど、もちろんそんなのできるわけなくて、担任は「先生も緊張するけど、一年間頑張っていこうな!」って生徒の良き友人みたいな雰囲気を振り撒いてた。嫌だわ、その押し付けがましい仲間感。どうせ後で女子同士で「好きになっちゃうかも!」とかキャピキャピしなきゃいけないんだろうな。ウザ。いや、今はすだちですよ。これをどうにかしてください。あ、出席、私の名前だ。暗くなり過ぎないように喉を調節しなきゃ。
「佐々木ー、佐々木明美ー」
「はい」
 まぁ初日にしてはよく出来たんじゃない? って違うのよ。すだちなのよ。あ、今のってこの間テレビで観たノリツッコミってやつなんじゃない? だとしたら恥ずかしいー! いや、心の中だからセーフでしょ。たまに男子で芸人のマネをするだけで、なぜか自慢気な奴とかいるからなー。ああはなるまい。
「すだちー、すだちー」
 そう、すだち! え、すだち? 担任、すだちって言わなかった? 出席の確認ですだちって言ったよね。いや、名簿の中にすだちがいるのか。え、つまりそれってすだちが生徒ってことになる? いやいやいや! なんで皆、普通にしてるの? 疑問に思わないの? じゃあもしすだちが生徒だとしたら机の上に座ってることになるよね。どちらにせよ、担任怒らなきゃじゃない? いや、そもそも人間じゃねぇよ! インディーズ柑橘類だろ! あー、叫びてぇー。

 その後もすだちは中学生として学校生活を過ごし、他の生徒や教師も自然に受け入れていた。どうやらすだちを本来のすだちとして認識しているのは私だけのようだった。しかし私はそれを口にすることはできなかった。だってすだちが人間として受け入れられている世界でそんな指摘をしてしまったら、この世界から零れ落ちてしまうことになるから。それにすだちの存在は私に妙な違和感を感じさせはするが、何か害を与えるわけでもなくただそこにあるだけだった。だったら黙ってやり過ごす方が最善だと当時の私は思った。
 でもすだちがいることで私と世界とのズレを感じることもあった。私が通っていた中学は頭髪と服装の検査が厳しく、前髪が眉毛にかかってないかとかスカートの丈が膝より何センチ下だとか、どうでも良いことをそこまでやるかってくらい拘った。額の狭い子もいれば広い子もいるし、そうなってくると可愛い前髪の感じも一人一人違ってくるわけで、でも教師達はそんなのお構いなしに女子全員の前髪を学校側が許容するダサ前髪にして没個性にさせてきた。そんなときすだちが許されている世界なら髪なんてどうでも良くないって凄く馬鹿らしい気分になった。でも周囲の子はそんなことは顔にも出さず、ていうか何考えてるのか本当に分からなくて、そもそも何か考えてるのって思いながら、私は自分のズレをただ黙って見逃していることにしていた。
 そんな感じだったから私は中学三年間が早く終われーって思いながら毎日過ごした。その願いが通じたのかあっという間に時は過ぎ去り、高校に進学すると共にすだちとは離れ、楽しく女子高生したり受験勉強に忙しくなっていくうちにすだちのことなんてすっかり忘れていった。
 それから私は人なりに成長していき、社会に出てそれなりの企業で働き始めた。そして三十歳になった私に中学時代の同窓会の案内状が届いた。その頃は仕事で精一杯だったし、案内状のネットから拾ってきたかのような定型文から仕方なく義理で私にも送っているのは見え透いていた。腹立ち紛れに破り捨てようかと思ったが、そのとき今まで忘れていたすだちのことを思い出した。そういえばあの柑橘はどうしてるんだろうか。
 私は気持ちを抑えられず柄にもなく同窓会に行った。しかしそこにすだちの姿はなく、同窓会ですだちのことを口にする人は誰一人いなかった。そんな出来事なんて始めからなかった皆の態度に私は気持ち悪さを感じていた。
 でも悪いことばかりじゃなかった。不機嫌そうに料理をつつく私にある男性が話しかけてきた。彼は私が初恋の相手だったと恥ずかしそうに打ち明けた。最初はよくあるナンパかと思い警戒したが、話しているうちに彼の真摯さに私も徐々に心を許し、交換ぐらいならいいかと連絡先を教えた。同窓会が終わって家に着いた頃、敬三という名の彼から連絡が来て、それをきっかけに休日にランチしたり映画を観たりとデートを重ねるうちに、あれよあれよと私と敬三は結婚したのだった。

 どうやら旦那は浮気をしているようだ。結婚生活を三年過ぎたぐらいから、敬三の帰宅時間が徐々に遅くなっていた。深夜二時を過ぎて帰ってくることもあり、私がこんな時間まで何をしていたのかを尋ねても、嘘がつけない敬三は「仕事がねー」とか「飲み会がー」とか曖昧な返事しかしなかった。私に見えないようにスマホを操作する頻度も多くなり、誰かからの着信を隠すかのように待受画面さえも見せないようにしていた。
 そんなことが度重なって積もりに積もった私は、このまま見過ごすのは二人にとって良くないと考え、思い立ったその日に敬三の浮気を問い詰めることを決意し、その帰りを待っていた。
 深夜一時になる頃、敬三は帰宅してきた。
「ちょっと、そこ座って」
 私は目の前の席を指した。結婚して間もない頃、この食卓でお互いのその日の出来事を報告し合い、一緒に笑ったり怒ったりしたものだった。敬三はいつもと雰囲気の違う私を一目見て、これから自分にとって不利な状況が繰り広げられることを悟り、見る見る内に顔が強張っていた。
「どうしたの? こんな時間まで起きて」
「どうしたのじゃないでしょ。敬三、最近自分がおかしいの分かってるよね?」
「うん、まぁ……」 
「まぁって何。私に言えないことしてるよね?」
「……うん」
「何? 浮気でもしてんの?」
 私の質問を聞くと敬三は黙り込み、見る見るうちにこれまで見せたことのない情けない顔になり、やがてゆっくりと頷いた。私はここ数ヶ月溜め込んでいたものを吐き出すかのように、そして敬三にも聞こえるよう大袈裟すぎるくらいに溜息を吐いた。
「すぐに認めるんなら最初からそんなことしないでよ。馬鹿じゃないの」
 敬三は自分が嘘がつけない性格であることも、私に嘘を見抜かれることも分かっていた。だからこんなにもあっさりと自分の否を認めたのだろう。その張り合いのなさからも私は益々腹が立ってきた。
「相手は誰なの? 同じ会社の人?」
「違う。実は、明美の知っている人なんだ」
「じゃあ、中学の同級生とか? 私たちが元々同級生なの分かってる? ややこしくなるから本当無理なんだけど」  
「相手は、すだちなんだ」
「……は?」
 それを聞いて私は思考停止し、この場で何も言えなくなるのは圧倒的に分が悪い敬三であるべきなのに、何も言葉にすることができなくなった。
 しばらく沈黙が降りた。しかしその時間が気まずくなった敬三は私の感情とかお構いなしに一方的に喋り始めた。
「いたでしょ、同じクラスに。去年偶然再会して連絡先を交換したんだ。それで何回か会ったりして、そうゆう感じになっちゃったんだ。本当に申し訳ないと思ってる」
「いや、ちょっと待ってよ。一人で勝手に話進めないで。私まだ全然追いついてない。というか追いつける気もしないんだけど。え、何がどうなってんの」
「すだち、覚えてる? あんまり目立たないタイプだったから明美は覚えてないか」
「覚えてる。覚えすぎてるくらい。敬三、この期に及んでふざけてんの?」
「そうだね、浮気は二人の関係性を裏切るふざけた行為だと思う。本当にごめん」
「今そのことは言ってない。いや、言ってるんだけど他のことが気になりすぎて頭が働かないの」
 私は何から手をつければいいのか分からず困惑した。一つずつ処理していくしかない。
「じゃあ帰宅が遅いときは何してたの?」
「言いづらいけど、すだちと一緒にいたんだ」
「一緒に? すだちと一緒にいて何してたのよ。二人で愛し合ってたとか言わないでよね」
 すると敬三がまた首を縦に振った。
「は!? すだちとなんか愛しあえるわけないじゃん。頭、どうかしてんじゃない?」
「すだちだってもう立派な女性だよ」
「柑橘。すだちはただの柑橘なんですよ。柑橘と会話したり浮気したりできるわけないって言ってんのよ」
「なんでそんな酷いこと言えるの? それは明美の価値観の押し付けだし、見た目でしか判断してないよ」
「何それ、ムカつくんだけど。じゃあ、敬三とすだちがどうやって浮気してたか説明しなさいよ。できるわけないよね」
 すると私の言葉を聞いた敬三は、意を決してゆっくりとポケットから何かを取り出してテーブルの上に置いた。それはすだちだった。そして震えた声で「いつも一緒なんだ」と呟いた。
「もうなんか怒る気力も失せてきたんですけど。自分の言ってること分かってる? もし敬三の言うようにすだちが立派な女性なんだとしたら、妻と浮気相手と一緒に暮らしてたってことになるんじゃない?」
「そんなわけない! それは勝手な解釈だよ」と敬三は強く否定した。
「じゃあ、スマホ見せなさいよ。連絡先交換したんでしょ? どんなやりとりしてるか見てやるわよ」
 敬三はスマホを取り出した。しかしすぐには手渡そうとせずに、まるで何かを削除するかのように画面を急いで操作し始めた。コイツ、何姑息なことしてやがんだ。私はすぐに立ち上がり敬三のスマホを奪い取った。
 奪ったスマホにはすだちを擬人化させたキャラクターが映し出されていた。キラキラ輝く眼は男性に媚びるかのように甘く垂れており、突き出した胸や尻は男性が性的に興奮するように大きく描かれ、緑のすだち柄の水着を着させられた所謂萌えキャラというやつだった。私は吐き気を催した。
「気持ちが悪い! 勝手に世界を自分の都合良く捻じ曲げて解釈してるのは貴方じゃない!」
「き、気持ちが悪いなんて酷い。これだって一つの形じゃないか」
「別に否定はしてないけど、気持ちが悪いことを気持ちが悪いと言って何が悪いの。貴方達が性的な根源を言語化できないように、私だって気持ちが悪いと思ったことには、気持ちが悪い、嫌いだ、虫唾が走ると言う権利はあるわ」と言い捨てると、私は徐にテーブル上のすだちを掴んだ。

 私は明確な殺意を持ってすだちを輪切りにしていた。包丁を片手に「くたばれ! くたばれ!」と暴れ狂う私を敬三は止めることができず部屋の隅で泣き崩れていた。
「クソな旦那と結婚したことにムカついて、深夜にラーメンを食べることこそが私の世界よ」
 これまでは貴方達の世界を黙認してきたし、なるべく理解を示そうと努力はしてきた。でももう我慢の限界。貴方達が貴方達の世界を私の世界に押し付けてごちゃ混ぜにしてくるようであれば、私だって私の世界を押し付けてやるわ。
「すだちの花言葉は純潔らしいわよ。貴方にピッタリだわね」と言いながら、私はラーメンを必要以上に音を立てて豪快に啜った。


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