切なさと愛しさと心強さと
ひとり編集部はその名の通り、ワンオペで雑誌を作る。外食で言えば接客も調理も電話応対もすべて、この身ひとつ。時には同僚と「このレイアウトどう?読みにくい?」「昨日まで金沢に旅行に行ってて」などと会話したい。ひとり編集マシーンにそのような時間は皆無である。したがって、独り言が多くなる。妄想が激しくなる。先の会話が私の脳内で繰り広げられる。「そうだな、ここで記事をたため」「いいねえ、旅行なんてこのところご無沙汰だあ」
この日の脳内対話の相手は新聞編集時代に世話になった馬場さん。馬場さんは190㎝近くある大男。サングラスなのか眼鏡なのか分からない、任侠映画に登場するような少し色の入ったレンズが威圧的だ。でも笑うと細い目が優しい。
わたしが入社した頃は、新聞編集の現場はさながら工場のようであった。机の前にはベルトコンベヤーの「川」が流れており、そこに見出しの大きさや文字を書き入れた紙を袋に入れて落とすと、それが1階下の制作局に届く。制作の担当者が指定通り打って、それぞれの面に割り当ててくれるという組版システムが動いていた。新聞編集者は見出しだけでなく、写真や図も同様に、大きさやトリミングをきめ細かく制作者に指示し、面に割り付けるべき素材をすべて「川」に流したうえで、編集専用の物差しをズボンのポケットに差して階下の制作局に走って降りて行くのだ。それが日付が変わるか変わらないかの深夜に。
新人編集者は当然、この新聞制作における事細かい決まりを守れない。すると、顔から湯気を出して階段を上ってくる制作マン(男しかいなかった)に怒鳴られる。挙句の果てには、侍にとって「刀」とも言える物差しを奪い取られ、頭をピシッとやられることになる。屈辱この上ない。新聞制作者は整理記者と呼ばれ、「記者」に違いないのだが、東南アジアで草木染した、よれよれのTシャツ姿の先輩もいて、しかも彼は100キロ近くあって、社内見学の際には「喫煙所から出てこないように」と編集幹部から言い渡されるほど、服装はだらける一方で、制作マンはオーデコロンをぷんぷんさせ、ポマードで頭髪をなでつけ、深夜勤務の仕事終わりにそのまま飲み屋に直行する蝶ネクタイ姿のおしゃれさんも見受けられた。
制作マンは乱暴者の巣窟であったが、心優しい技術者集団でもあった。素材を全部流して下に降りて制作マンとペアで紙面を組むのだが、熟練した制作マンは、編集の人間に言われなくても勝手に紙面を作ってしまって、「組んどいたからここのはみ出ている出ている部分を削れ」と紙面ゲラが下から上がってくることがある。それが時々、自分が想定したレイアウトを全く同じで、制作マンの腕に惚れ惚れすることがある。もちろん、想定外の紙面をでっち上げられるケースも少なくないのだが。そうなると、下にすっ飛んで降りねばいけない。「刀」を差して。
馬場さんの話から大分横道にそれたが、彼はそんな勝手なことはしなかった。わたしのいうことを馬鹿にせず聞いてくれたし、「こうしたらいい」をいうアドバイスも的確だった。力士と同じだ。大男はやさしい。とはいいながら、わたしは馬場さんの本性が「暴れ馬」だと知っていたから、極力逆らわないようにしていただけかもしれない。
鼻息の荒い制作局では喧嘩が絶えなかった。編集VS制作、制作VS制作のバトルは日ごと繰り広げられていた。言った、言わない。言うことを聞け、聞くもんか。中でもバレーボールで鳴らしたという馬場さんを怒らせると大変だというのは暗黙の了解だった。金属製の筒のようなゴミ箱が制作局にあった。高さが70~80㎝あり、足でぐいっと押しても数センチ動かすのがせいぜいのものを、馬場さんは軽々持ち上げてぶん投げたという伝説があった。全日本プロレスで見たザ・ロード・ウォリアーズのアニマルが日本のアニマル浜口を軽々リフトしてマットに叩きつけたのを思い出し、私は震え上がったものだ。
デジタルの波はちアナログな新聞づくりの現場をも飲み込んでいった。2人1組で作っていた新聞制作は編集記者のみで行われるようになった。ワンマン組みの到来である。制作マンの多くは他の部署に行くか、それを断ると早々と新聞の現場から去っていった。馬場さんもその一人だった。編集と制作を結ぶ「川」はなくなった。編集フロアはメーカーの管理部門のようにスマートになった。スーツ姿で新聞を作る若手すら出てきた。わたしは馬場さんからブカブカの作業着を受け継いでいた。
過渡期というのは面白い。流れに乗れず取り残される者が出てくる。自分でいうのもなんだが、そういった時代遅れの者は実に愛すべき人間なのだ。草木染Tシャツの先輩は相変わらずその恰好を改めようとしないから、社内見学では無理やりワイシャツを着させられているし、その日の夕刊を紹介するテレビ番組が夕方編集局で生放送されるが、30歳と25歳のコンビが番組に映るように、商売道具である物差しで切り合いを演じて、速攻、編集局デスクに呼びつけられ、「今度やったら始末書だからな」と脅かされた。わたしは素直に謝るタマではない。だって馬場さんの作業着を着ているのだ。私も気が大きくなっている。そんなとき先輩が中指を立てて、結構大きな声で言った。「バカはどっちだ。ひっこんでろ」。わたしたちは心に虎を飼っている。
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