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【カルチャー】本質に辿り着こうとする態度こそ、教育者としての教養なのではないか。「大辻清司実験室」を読んで。

大辻清司さんの名前を知ったのはいつだったか。

通っていた大学の教授が元々大辻さんの研究をされていたというのもあって、作品はきちんと見ていなくても、どういう仕事をされてきたかというのはなんとなく知っていた。

ただ、私の中では大辻さんは写真家というより教育者としての認識が高くて、実際に大辻さんが育てた写真家は多いし、評価が高いのはもちろんのこと、私が個人的に好きな写真家もいる。

この本は大辻さんの代表的な仕事である「実験室」を書籍化したもの。元は今はなき「アサヒカメラ」で1975年に連載された企画で、今もなおその評価は高い。いわば写真界の古典の一つである。

写真の良し悪しを言語化するのって思っているよりも難しく、好きな写真について語るときもそうだけど、実際に自分が撮った写真について説明するときも「た、ただ、なんとなくいいと思ったんですよぉ」と奥歯に物が挟まったような言い方しかできなくなる。

この本は言ってみれば、そんな「写真の良し悪し」を語ることの難しさを語った本でもあると言える。

とはいえ「プロ写真家が教える写真の見方、良い写真の撮り方」と言ったハウツー本であるわけでない。

それに、一つ一つの言葉からは、「結局のとこ、写真について話すのって難しいんだよな」と言う大辻さんの苦労や諦念が見えなくもない。

それでも、自らを「観察者」と「被験体」という2つの人格に分離させてまで絞り出した大辻さんの言葉には、表現行為としての写真の本質がズバリと言い当てられていて、ついハッとさせられる。

彼の下意識に潜む何物かを引き出すことを、彼の写真の中心に据えよう。それを方法にしよう。そのように撮った写真ですから、なぜん、なんのために、なにを、撮ったのかご本人にもすぐさまわからないのです。

しかし、これは当事者の楽しみ事に近く、ここではどうでもいい事でしょう。

正面切ってお答えすればこうなります。

心の内側でしか聞こえない叫びや吐息、つまりホンネを公表するのは、むしろ表現者の最も誠実な提示物であるだろう。

本書より

机上の空論でなくして、表現者としての実体験から表現行為の本質を見極めたからこそ、教育者として多大なる実績を残されたんだと思う。

だとすると、本質にたどり着こうとする態度こそ、教育者として最低限身につけておきべき教養なのではなかろうか。

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