【カルチャー】生きづらさに目を瞑らせる社会は幸せか?(生きづらさ時代/菅野久美子を読んで)
生きづらさを語ること。
亡くなった先輩の話。
世界が未曾有のコロナ禍に突入する少し前、大学の先輩が亡くなった。まだ20代だった。
死因は不審死。東京でバンド活動をやっていた彼だが、ある日練習に訪れず、メンバーが一人暮らしの彼のアパートを訪ねたところ・・・だったらしい。
訃報を聞いた日の帰り道、私は車を運転していた。彼と過ごしたわずかな時間を、私は思い返した。
彼とはお互い所属していた音楽サークルで出会った。いつもオシャレで、穏やかで、やさしい口調で語りかけてくれた彼。ろくに音楽の才能もない私とは違って、ギター、ベース、ピアノなど、様々な楽器を自由自在に演奏できた彼は、私の憧れだった。
「この音はこう出せばいいんだよ」
楽器の扱い方をやさしく教えてくれた彼。
「お前サークル辞めんなよ。お前の存在、俺にとってデカイから」
サークルに自分の立ち位置を見出せず悩んでいた私に、少し照れ臭そうにしながらも、そう励ましの言葉をかけてくれた彼。
彼と過ごした時間を思い出すと、やはり涙をこらえきれなかった。
「なんで死んじゃったんだよ・・・」
車を路肩に止めた私は、ハンドルに突っ伏し、ひたすらに泣いた。
「バカヤロウ・・・」
生意気な口ばかり聞いていた私である。バカヤロウと嘆くそんな私に対しても、彼はきっと静かな笑みを浮かべてこう言うだろう。
「ごめんな」
私のスマートフォンには、彼がピアノの前に静かに佇む写真が入っている。
人知れず亡くなる者たちの心の内にあるもの。
日本では年間3万もの人々が孤独死を迎えていると言う。
孤独死の現場を追いつづけ、そこで見つけた現代社会のリアルを世の中に発信しつづけるノンフィクション作家の菅野久美子氏は、著書「生きづらさ時代」において、孤独死の根底には、その人たちが抱える「生きづらさ」があると語る。
該当文を引用してみる。
以前も書いた通り、現代は"一億総生きづらさ時代"であると感じる。人々が抱える生きづらさがいろんな場所で語られている。
私自身そこはかとない生きづらさを抱えながらも、その生きづらさを言葉にし、小説にし、詩にし、時には写真に写し出し、世の中に発信している。
しかし、それがいかに恵まれた特権であるかということを、私は年間3万もの人々が孤独死を迎えているという事実を知るまで、分かっていなかった。
自分の生きづらさを言葉にできない、形にできないことの虚しさ、誰にも見向きもされないことの寂しさ。
そのような種類の"生きづらさ"を感じている人たちがいること、またそれらに呑み込まれ、ひとり孤独に息絶えていってしまう人がいることに、私は気づけていなかった。
生きづらさを感じられなくなった、先にあるもの。
しかし、生きづらさを抱えていながら、その生きづらさを言葉にできない背景に何があるかを考えると、そこには"生きづらさ以上の生きづらさ"からくる苦しみがあるように思える。
それは「自分の生きづらさを自覚できない」ことの苦しみである。
例えば怪我をして「痛い」と感じるのは、その怪我が自分の命を脅かすものであることを自覚しているからだ。
あなたが体のどこかを切ってしまい、大量の血が流れたとしよう。無論、激痛が走る。その激痛を和らげたければ、応急処置をし、病院に行き、適切な治療を受けるだろう。
しかし、そこに痛みが介在しないとどうなるだろう。痛みがなければ、どうしようとも思わないだろう。血は流れ続ける。そこに待つのは死だけだ。
では、生きづらさがこの痛みと同じものだとするなら、生きづらいと感じるのは、心のSOSではないだろうか。
それ以上行くと心が壊死してしまう。それ以上行くと死んでしまう。生きづらいと感じる心の裏にあるのは、「死んでしまう!」「死にたくない!」と言う本能の叫びだ。
では、その生きづらささえ感じなくなってしまったら?
そこに待つのは・・・。
「あなたを見ている」世界で、生きづらさを語る。
SF小説で、例えばジョージ・オーウェルの「1984年」などで描かれるディストピアの世界には、監視人が付き物だ。
人々の言葉はもちろん、人々の思考さえ監視され、コントロールされてしまう。まさに表現の自由を奪われた社会が架空の物語を通じて描かれる。
その物語を、所詮は夢物語と楽観視する人もいれば、それは今現実に起きていることだと悲観視する人もいる。
私はどちらかといえば「所詮は夢物語」と楽観視している方かもしれないが、それはあくまで「1984年」に描かれたビッグブラザー的存在は現代では成り立たないと言う考えから来るものである。
しかし、これだけ人々の生活がインターネットによって可視化されてしまった社会である。「あなたを見ていますよ」と人々の行動や思考を監視しているのは、巨大なビッグブラザーでなく、隣にいる、私と同じ、小さな市井の人々であるかもしれない。
そのような社会で「生きづらさ」を語ることは、本当に可能なのか。
孤独死を迎えた人々の知られざる心の叫びは、そのような問いかけを、私たちに投げかけている。
先輩の死は、バンドのファンや、私たち知人にも大きなショックを与えた。
彼が所属していたバンドの名前を調べると、顔も名前も知らない人々が色々な憶測を語っている。時には悲しみを滲ませた言葉で、時には口汚い言葉で。
「お前があいつの何を分かっているって言うんだ」
そう怒りをにじませる者もいる。
彼が抱えていた生きづらさとは、なんだったか。
私にだって、分からない。
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