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【カルチャー】彼はどこまでも「作家」であった。(ある作家の夕刻 フィッツジェラルド後期作品集を読んで)

#読書記録

*ある作家の夕刻 フィッツジェラルド後期作品集*

著者:F・S・フィッツジェラルド
編訳:村上春樹

中央公論社 2019年 6月

「私はとても幸福であるか」と彼は続けた。「あるいはとても惨めであるか、そのどちらかだ」

「嵐の中の家族/フィッツジェラルド」より


書評

フィッツジェラルドの作品は彼のドラマチックな人生を知ってこそ、その輝きを増す。あまりに若すぎた成功と早すぎた凋落、そして死。そこには夢を追い、時代に捨て去られた、一人の才能豊かな人間のドラマがあって、彼の作品、特に数多く残した短編小説には、そのドラマの断片が、ガラスの破片のように散りばめられている。

時代の寵児となり、鮮やかな成功を手にした後に待っていた没落の中にあってこそ、"書くこと"を辞めなかったフィッツジェラルド。自らを「文学的娼婦」と名乗るほど、彼にとって"書くこと"は生きることと同義だった。

そんな"陰の時代"の中にあって書かれた作品には、否応無しに、一種の暗さがある。どこか自虐的にも見えるその暗さの中に、共感を見出すことは可能か。それは読者に委ねられるものである。

「私は幸福であるか、あるいはとても惨めか」という言葉に、「これを読んで共感を感じないあなたは幸福か、それとも共感を感じるあなたは惨めか」という彼の問いかけを感じるのは私だけだろうか。

小説が人生を描くものであるとするなら、これほどまでにその芸当を成功させた作家もいないと思う。やはり彼はどこまでも「作家」であった。

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