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96番 花さそふ嵐の庭の       入道前太政大臣

2017年10月18日/今橋愛記

花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり  入道前太政大臣にゅうどうさきのだいじょうだいじん
〔所載歌集『新勅撰集』雑一(1052)〕

歌意
花を誘って散らす嵐の吹く庭は、雪のように花が降りくるが、実は雪ではなく、真にりゆくものは、このわが身なのだった。 

『原色小倉百人一首』(文英堂)

この歌が本歌としている小野小町の

花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに   

がすきで。どれくらいかというと、

  あ、あ、
  ちっ、て。しまった ももいろもわたしも
  ぼんやりと雨をみているうちに    

(初出2009年8月朝日新聞「あるきだすことばたち」※掲載時の表記を現代仮名遣いに変更)

こんな翻案をしてしまうくらいなのだけれど、
小町の歌には、桜が散って、わたしのすがたもおとろえてしまった。という女の人の憂い。というか、
作者が絶世の美女小町の為、さっきの翻案をつくるときなんかは、美しい女の人に生まれ変わったような気分で、うっとり
だったのだけど。
今回の歌は、持っている注釈書なら「自らの老いを実感し」という、その文字。
「老い」というその言葉に対して、現在40歳の自分には、何というのか実感として使うには、まだおこがましい。
というか、もちろん白髪は増え等々のことは日々あっても、まだ、わかった顔をしたらあかん言葉や。という認識があって。

ちょうどこのところ読んでいた『寂しさが歌の源だから 穂村弘が聞く馬場あき子の波瀾万丈』(馬場あき子/角川書店)だったら 

この前あげてくださった〈さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり〉という歌ですけど、五十代ってまだ身体的にはむしろ盛りの力があるのに、みょうに年齢的な意識の圧力があって、しかも傍には老いゆく親の姿があるという、「ここはどこだ」という人生の途上感がある時期なんです。

(148ページ)

傍につねに老人を見ていたのね。父も老いていくし、母も老いていくし。老いていくとき何が心残りになっていくとか、そういうのをじっと見ているんです。すると心に老いが入ってくる。

(141ページ)

「老い」について書いてあるこんな部分に、どきんとする。
〈さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり〉。
実感としてこの感じが解るようになるのだったら、年をとるのも悪くないなあと思ったり。
「心に老いが入ってくる」なんて言葉、自分の中には まだないなあと思ったり。
何か ははー(あたまをさげている)ってなるっていうか。何ていうか。
そんなこんなで、自分は、まだ数がいってない。という感じが拭えないまま。でも、この歌すきで。
花さそふも、嵐の庭も。降りゆくが古りゆくとかかってるの なんかは特に。
降りゆく花を透かせて、そこに自分を見ている。そのとききっとぼんやりしている作中主体のひとみの感じ。その全体。こころがすき。何度も、すきすき書いたが、これを好み。っていうんだろう。
大臣の最高位、太政(だいじょう/だじょう)大臣にまで登りつめた作者藤原公経ふじわらのきんつねであっても、憂える「老い」って いったい。
まとまらないが、数がいってない者なりの翻案。
今から20年くらい後に、夫とふたりで温泉にでも行っているのをイメージしてつくった。
旅館の部屋の窓から見える嵐の庭。ぱちっと来ないので20年くらい後の自分への宿題にします。かしこ。

  さくらかと 
  目をやらず きみ
  ちがいます。
  ふりゆくものは わたしたちです。  今橋 愛

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