23番(花山版③)月みればちぢにものこそ 大江千里
花山周子記
月みればちぢにものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど 大江千里 〔所載歌集『古今集』秋上(193)〕
前回少し触れた、この歌の下敷きになっているという漢詩。
これは中国唐の時代の詩人、白居易(772‐846年)の詩で『白氏文集』に収められている。
『白氏文集』の全巻成立は845年で日本にはなんとその前年、844年に伝来している。その2年後に逝去する白居易自身も日本での評判を知っていたというから、当時の文化伝達の速さには驚かされる。古今和歌集の発布はそれからおよそ半世紀後の905年なので、その頃には平安貴族の一般教養としての需要も高まっていたのだろう。そういう時代背景の中で千里の『句題和歌』もまた編纂されているわけで、その彼の仕事ぶりは、
ということで、なるほど、これは明治に入って西欧文学を輸入した文学者たちの仕事に近いのかもしれない。英文学者であった上田敏は、まず西欧詩を日本の伝統的な韻文、七五調を基調とした新体詩に翻案するところからはじめたのだった。
話を戻せば、白居易の詩が平安貴族に歓迎された理由にはいくつかの要素が重なっているようである。
ということで、これもまた非常におもしろいなと思う。
「雪月花が多く主題となっていること」「もののあはれの精神の理解者」については、「日本の詩歌と同じく」と前提のように語れていることに疑問が湧くが、少なくとも大陸の様々な詩歌の中から特にそういう趣向を好んで摂取してきたという事実が垣間見える。
第一の理由としてあげられている平易さについては、白居易の詩は一貫して平易暢達を重んじられており、彼が詩をつくるときには目の見えない老女に読んで聞かせ、通じないところをより平易な表現に直したというような伝説もあるほどのようで、本国でもその平明さが人気を博し、様々な階層の人々にまで行きわたった。それはつまりポピュラーな詩であった。
確かに、冒頭にあげた「燕子楼中」も現代人の私が読んでもとても分かりやすい。
燕子楼が屋敷の名であることさえわかれば、あとは補う必要もないほどだ。
いちおう口語訳を試みれば、
となるだろうか。もう少し補えば、これは夫に先立たれた女性の思いを詠った詩(その夫は白居易の友人であった)ということであるようだが、そこまでわからなくても、簡潔な文体によって、じゅうぶんに秋の夜長を一人で過ごすことの研ぎ澄まされた寂しさを味わうことができる。
千里はこの「秋の月夜のさびしさ」をトレースし、さらに漢詩で重要になる対句表現を取り入れた上で、それを和歌の文脈に砕いてみせたのだ。
今回で終わる予定だったのですが、漢詩の話がおもしろくて、あと二回ほど書くことになりそうです…
つづく
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