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33番 ひさかたの光のどけき         紀友則

花山周子記

ひさかたの光のどけき春の日にしづこころなく花の散るらむ 紀友則 
〔所載歌集「古今集」春(84)〕

歌意
日の光がのどかにさしている春の日に、落ちついた心がないので桜の花が散っているのであろう。

『原色小倉百人一首』(文英堂)

今ではいわずと知れた百人一首の名歌であるが、平安時代はさほど評価されていなかったようで、藤原定家によって発見された歌だという。

「ひさかたの」は天・日・空・光・昼・雲・雨・都にかかる枕詞。わたしはこの枕詞が好きだ。「ひさかたの」からはじまると歌はふしぎと透明度を持つ。その語源については「日射す方」など諸説あるようだが、わかっていない。それでも、その音感からは遙けさのようなものが感じられるように思う。この歌では光にかかるので、なおさら遙かな光の降り注ぐさまが思われる。のどかなのである。音も風もない透明な光。そのなかで花が散っている。まるでガラスの中の世界のようだ。

「しずこころなく」、この言葉もまた好きである。しずかな心でない、つまり、「さわだつ心」ということになるのだけれど、しずこころなく、という響きにはいつもそれだけではない、雫するような繊細な情感を感じさせられる。

さて、冒頭に引用した歌意では「落ち着いた心がないので桜の花が散っているのであろう」となっている。歌意なので直訳ということになるのだろうが、鑑賞として書くならばこのままでは一方向すぎるように思う。というのは、これだと、散る花についての解釈を述べているだけの歌になってしまうからだ。この歌にはもっと双方向の、ある光景と人の心との不思議な立体感がある。花の散る様子とそれを見つめる人の心との震えるような感応が脈打っている。「しずこころなく」は散る花を見つめるときに友則の心にきたすなにかであり、それをまた花の散るなかに見つめ返す。「らむ」は推量であるけれど、ふしぎなつながり方をするのはそのような相互の反照に照らされた推量であるからだ。「落ち着いた心がないので~散るのであろう」などという単純な順接ではない。

「らむ」は推量というよりも、むしろ吐息といき詠嘆えいたんである。「花の散るなり」としたら平板な叙述じょじゅつになって作者の美しき感傷は表現されない。

『田辺聖子の小倉百人一首』(角川文庫)

本当にそうだと思う。吐息であり、詠嘆なのだ。繊細な繊細な感傷なのだ。

作者は紀友則。紀貫之の従兄弟であり、『古今集』選者の一人であったが、古今集の完成を見ずに亡くなった。貫之にしろ友則にしろ歌人としての名は高いが身分そのものは低かった。

しずこころなく花の散るらむ 

本当に美しい。

ひさかたの光にソフトクリームを嘗めている子のしずこころなく 花山周子

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