見出し画像

23番(花山版⑥)月みればちぢにものこそ      大江千里

花山周子記

月みればちぢにものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど 大江千里  〔所載歌集『古今集』秋上(193)〕

歌意
月を見ると、あれこれと際限なく物事が悲しく思われるなあ。私一人だけの秋ではないけれども。

『原色小倉百人一首』(文英堂)

ところで子規は、続く文章で他の歌と比較して千里の歌を「理窟こそあしけれ姿ははるかに立ちまさりをり候」とも言っている。

 芳野山霞の奥は知らねども見ゆる限りは桜なりけり

 八田知紀はったとものりの名歌とか申候。知紀の家集はいまだ読まねど、これが名歌ならば大概底も見えき候。これも前のと同じく「霞の奥は知らねども」と消極的に言ひたるが理窟に陥り申候。既に見ゆる限りはといふ上は見えぬ処は分らぬがといふ意味は、その裏に籠りをり候ものを、わざわざ知らねどもとことわりたる、これが下手と申すものに候。かつこの歌の姿、見ゆる限りは桜なりけりなどいへるも極めて拙く野卑やひなり、前の千里の歌は理窟こそ悪けれ姿は遥に立ちまさりをり候。ついでに申さんに消極的に言へば理窟になると申しし事、いつでもしかなりといふにあらず、客観的の景色を連想していふ場合は消極にても理窟にならず、例へば「駒とめて袖うち払ふ影もなし」といへるが如きは客観の景色を連想したるまでにて、かくいはねば感情を現すあたはざる者なれば無論理窟にては無之候。また全体が理窟めきたる歌あり(釈教の歌の類)、これらはかへつて言ひ様にて多少の趣味を添ふべけれど、この芳野山の歌の如く、全体が客観的即ち景色なるに、その中に主観的理窟の句がまじりては殺風景いはん方なく候。

正岡子規「四たび歌よみに与ふる書」

この文章からは、子規は千里の歌に見える理屈を嫌っているのであって、歌そのものの立ち姿は寧ろ評価していることがわかる。また、理屈についても、理屈そのものを否定しているのではなく、あくまでもその歌に向き合うときに見えて来る「理屈」の如何を問うているのだ。「芳野山」の歌は、下句で「見ゆる限りは」と言っているのだから「知らねども」は蛇足で、ただの説明に陥っている。それがこの歌で批判されるところの「理屈」なのだ。本当にその通りで言い返す言葉もないのだけど、ふしぎなことに、こんなふうに子規にこてんぱんにされているのを読んでいると、だんだんその歌がとてもおもしろく思えてくる。私が意外と千里の「月見れば」や八田知紀の「芳野山」の歌を好きなのはたぶんこの子規の批評のおかげなのだと思う。

芳野山霞の奥は知らねども見ゆる限りは桜なりけり

は、言われてみれば確かにどうも歌の姿がアホっぽいというか、だらしがない感じがする。それに比べて、

月みればちぢにものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど

は確かに立ち姿があると思う。

ここからは現代人の私の鑑賞になるのだけど、その立ち姿というのは、生真面目と言ったらいいだろうか、律儀で神経質な感じが歌に細い線をつくっていると思うのだ。それは、子規に批判された「あらねど」という言い方に一番出ているような気がする。きちんと言い納めなければ気がすなまいような、「あらねど」にはそういう謙虚で控えめな態度がある。たぶんそれは漢文学者として白居易の詩を典拠に置くことの彼の謙虚さでもあるのだろう。秋の悲しさを思うのは自分一人のオリジナルではない。多くの優れた先達の感じてきた秋を自分もまたここでこうして味合わせていただいている。そういう膝をきちんと揃えるような佇まいが、実のところ普遍性とはほど遠い「わが身一つ」をこの歌に細く真っ直ぐ立たせていると思うのだ。だから子規の言うように秋のことをかなしく思う「われ」の感情は消極的にならざるを得ないのであるが、この歌には寧ろ、そのような控えめな立ち姿のほうに彼の感情の表れを見るのである。


太陽がついてくるとは思わねどわが身一つに月つきて来る 花山周子


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?