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マイ アーカイブス

 今年で63歳になった。明らかに人生の折り返しを過ぎた年齢だ。そんな私に最近よく起こることがある。昔の出来事が頭に浮かび、しばらくその世界をさまよってしまうのだ。
 頭の中で上映されるシーンは様々である。脳のどこかに私のアーカイブス映像が冷凍保存でもされているのだろうか、入浴中にほどよく解凍されるようである。
 そして「なぜこんなこと急に思い出したのだろう」という呟きで回想の彷徨は終わる。
 先日も突然こんな映像が現れてきた。

 小学校低学年の私がいる。母が東大阪から運転して来た車から降りる。木造の小さな家の玄関扉をガラガラと開けて中に入ると、薄暗い居間に大きなこたつが置いてある。ここは尼崎、母方の祖母が住んでいる家だ。3つ上の兄と祖母と母とで足をぶつけながら暖を取り白黒テレビを見ている。
 私は、母が大好きで自分の片手を母のお腹に回してべったり寄り添っている。でも、しばらくして母はこう言って部屋を後にする。
「夕方には迎えにくるからな」
 母の優しい眼差しを見つめる私。
 ところが時が進み、あたりが薄暗くなってきても母は私たちを迎えにこない。
「なあ、かあちゃんまだ? どうしたん」
「まあ、そのうち帰って来るやろ。もうちょっと待っとき」
 何度聞いても祖母は同じ答えを繰り返す。
 すっかり日が沈みあたりは真っ暗になった。
 わたしが、「なあ、かあちゃんまだああ?」と何度目かの問いかけをした時、
「おかしいなあ。どないしてんやろ」
 と今までとは違う答えが返ってきた。不安な表情を浮かべて応えた祖母。その顔がくっきりと頭に現れる。何か大変なことが起きたんだと感じている自分の姿が見える。
 しかし、映像はその時の祖母の困惑の面持ちでおわりなのである。
 この時、何が起こっていたのか。なぜ母は私たちを置いて行ったのか。 

 しかし、違う日に別のアーカイブ映像が上映されこの疑問の答えを伝えてくれる。
 私は、中学1年生。丸型の石油ストーブをすっぽりと囲む鉄製の赤いテーブル。そこで、「母」と語り合っている。ここで言う「母」は私にとっ2人目のいわゆる義母である。父は、九州に出張で留守。父の再婚後に生まれた九つ下の妹はもう就寝している時間だ。兄は、この時、すでにこの家を出て行っており、一緒に住んではいない。
 何のはずみからか、私が「ぼくな、昔、かあちゃんに置いてけぼりにされたことがあってなあ」と切り出す。「ああ、それなあ」と「母」は私にこんな話をする。 
 あの時、母は私たちをおいて若い運転手と遠い場所に向かっていた。いわゆる「かけおち」だ。父は、数少ない手がかりをもとに自分の妻を探しあて、無理やり連れて帰ってきたらしい。
 しかし、母の逃避行はその後も繰り返された。4度目の時、父は追いかけることをあきらめたそうだ。夫婦関係が冷め切っていても3回までは私たち兄弟のために車を走らせたらしい。 
 私はこの「母」の話に少なからず衝撃を受けている。動揺を隠すようにテーブルの上にあるコーヒーカップを手にする13歳の私。
 ストーブの火も揺れている。 

 改めて「あの時」や「あの頃」のことを考えてしまう。
 父は、運送業を営んでいた。忙しく仕事一筋の人だった。時代は、1950年代後半、高度経済成長の波に乗って仕事は順調だった。そんな父はあの時、どんな気持ちで私たち兄弟を迎えに来たのだろう。
 そう言えば、学校から帰っても母がいない時があったなあ。クリスマス・イブの日に会社の運転手さんが突然「レゴ」(おもちゃのブロック)を届けてくれたことがあったなあ。あの時も、父は母を探しに行っていて、プレゼントだけでも子どもに届けなきゃと運転手に託したのかな。
 幼い頃、点だった出来事が少しづつ線になっていく。 

 わたしを育ててくれた母は、71歳で十五年前に他界した。産みの母親と兄はどうしているのだろう。数えてみると50年以上会っていないままである。
 私の頭の中のアーカイブス映像は、優しく美しい母の笑顔と、いつも私を自転車の後ろに乗せて、色々なところに連れて行ってくれた頼もしい兄の背中のままである。 
「なんでこんなこと思い出したのだろう」
 きっとそれは
「思い出したかったから——」

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