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「それでもまだ私は失う」⑧

東日本大震災が起こり、原発が爆発した。
それからしばらくして放射能の問題が様々なところで発信されるようになった。
私たち原発被災者はあっと言う間に「ばい菌扱い」となった。
私の愛する故郷ももちろん「ばい菌を蒔き散らかす場所」とされた。

車のナンバーでその土地から避難して来た者だとわかると、ホテルも、貸し駐車場も、コンビニやファミレスですらも断られる始末だと聞いた。
私も、祖母も、母も、たくさんの病院での診察を断られた。
「放射能がうつるから近づくな」と県外に避難した家族の子供が転校先の学校で虐められ、結局は福島に戻ってくると言うケースも良くあった。

「どうせ福島にいれば皆、同じだから」と。
でも、全然同じではなかった。

私たちのように、「原発付近に住んでいた者」と、そうじゃない人々の心には越えられない溝があった。
それは今でも完全には埋まっていないと正直感じる。

仕方ない。
そういうものだから。
人の心と言うのはそういう風に出来ているのかもしれない。

どちらもだ。
「どうせ私たちの気持ちなんてわからないでしょう」と言う気持ち、でちらも、なのだ。

「原発が近かったんだから補助してもらえることが多くていいよね」と言う気持ち。

「そんなものはいらないから、家もまだ、なんとか戻れる土地であって欲しかった」と言う気持ち。

自分の育てていた乳牛たちをほおっておけなくて、何度も何度も毎日のように一時帰宅して、しまいには避難先に戻ることをやめ、牛の食べ物もなくなり、自死を選んでしまった人がいた。
もちろん、その乳牛たちの出す乳は放射能の関係で出荷できないレベルだったのだろうし、この話はもっともっと事故があってからすぐの頃の話だ。

日々諦めず家族の遺骨や遺品を探し続ける人がいる海辺や、野馬追の馬小屋で赤く抉られた肉を見せびらかすようにして倒れている、きっと逃げたがって暴れたのであろう馬の死骸。

そして、首輪に繋がれたまま、逃げることが出来ずにそのまま餓死してしまった飼い犬たち。

そんな様々なものや人が、様々な気持ちや念を抱く場所。
入り乱れる文句や、暴言、差別、偏見、未だに残るしこり、いつになればと考える。
きっと解決する日は来ない。
もう忘れていると思っていても、時々、私の心は故郷に向く。
本当はいつも向いているけれど、敢えてそうしないようにしているだけ。

たくさんの方が亡くなったし、たくさんの方がご自分でご自分の命を追い詰めた。
たくさんの方が今でも苦しんでいる。
東日本大震災で亡くなった方々に、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

それが私の故郷。
何かに書く際には、最後にこの一文を必ず載せる。

それが私の愛した故郷なのだ。


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