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「それでもまだ私は失う」②

私が2011年3月11日にはじめて避難したのは中学校の近くの体育館だったのだが、食パン一枚だけが配られた。
雨に近い雪が降っていた。
私はその食パンを避難先に連れて来ていた二匹の飼い犬に分け与えていた。
まさか12日になってからその先、その犬の内の一匹とは、二度と会えなくなるなんて思いもせずに。

12日の早朝、ベッドには倒れた家具があり、破片も零れていた為、車内で寝ていた。
窓を叩く音で目が覚めた。
もうすでに明るい外。
良い天気だった。
窓を開けると、消防団の服を着たおじさんがいて「ごめんね、避難してね」と一言告げる。
私が「津波がここまで来るんですか?」と聞くと、「違うよ、原発だよ」と言う答えが返って来た。

ここから、私の原発被災、原発避難生活ははじまった。

家には二匹犬がいた。
一匹は妹が怪我をしているところを見捨てられずに拾ってきた、人懐っこい元気なスピッツ。
もう一匹はペットセンターで昔父が購入してきただいぶ年寄りのマメシバ(こっちの方がだいぶ古参)だ。

ひとつの車に三人(父、母、私)乗って行こう、バラバラはまずい。
犬は一旦置いて行こう、きっとすぐに帰ってこられるから、と父が言った。
父は原発に詳しい。
純粋に学ぶことが好きだったこともあるだろうし、原発のある町で生きて来て、ずっと働き続けてきて、仕事仲間や友人には原発で働いている人物だっていたからであろう。
それなりに、原発と言うものに知識のある人だった。

でもその思惑は外れた。
その後、私たちは、慣れ親しんだ実家に帰ることなど到底出来るはずもない状況になるのだ。

いつもなら混むようなことのない田舎の道が渋滞ですごいことになっている。
そんな中をなんとか進むしかない状態が続く。
夕暮れ時になっても、私が通っていたすぐそこである中学校に向かう道にすらたどり着かない。

そんな中を何時間もかけて、とりあえず親戚のいる福島県の中間にある土地まで行こう、と父が言う。
けれど、私たちはその目的地へ、向かうことすら出来なかった。

「被災者を誘導する人」が、私たちのことを案内したのは、とても田舎にある山の上にある廃校だったからだ。
家で共に暮らしていた父方の祖母はデイサービスに行っていた最中の震災、避難だった為、どこにいるのかがわからず気がかりだった。
誰が一体どこに避難させられていて、誰と共にいるのかもわからない。

もちろん、母方の祖父や祖母もどこに避難しているのかわからないし、従弟や、近所に住んでいた親戚、同級生、みんなどこにいるのかわからない。
津波だって凄かったのだ、海側に住んでいた友人たちは無事だろうか。
生きて、いるのだろうか。
携帯は全く通じない、メールすら通信不可能。

とりあえず行きなさいと言われた廃校の校舎内で、夜を明かさなければならない。
けれど、もうそこは足の踏み場もないほど避難して来た人でいっぱいだ。
ただ、良かったことがひとつ。
そこには、従弟と、叔父と叔母がいた。

私の従弟は、田舎で発達障害の検査が出来る精神科や心療内科などがなかった為に診断はされていなかったが、幼い頃から今までの様子を見るに、多分だが自閉症スペクトラムだと思われる。
知的な遅れが一切なかった為、ある程度気づかれずにそこそこ大きくなるまで、つまりは二次障害が出るまで放置されてしまったパターンだ。
まあ私も同じ境遇なわけだが。

今考えると、自閉症スペクトラムと言う障害を持った従弟にとって、あの状況はとてもキツかっただろう。
知らない場所、初めての場所に突然放り込まれ、たくさんの雑音、子供の泣く声、怒鳴る人の声、大きな音、特性により食べられるものが少なく偏食なのに、食べ物だって自分では選ぶことが出来ない。
そんな中、せめて、と思われる、自分の落ち着く為のものすら持って来ていない、着の身着のままだ。
健常者の方ですら辛いと言うのに、自閉症スペクトラムの特性を持つ者にとっては、ほぼ地獄に等しい耐え難い環境だったであろう。
何より彼、従弟はまだ大人ではなかった。

近所の人たちから差し入れられた毛布にくるまって、従弟は震える声で、一定の感情のこもらぬ調子で、ウルトラマンに出て来る怪獣の名前をひとつひとつ小声で繰り返し呟いていた。
それがきっと、あの時、あの場で、彼が落ち着く為に出来ること、唯一の方法だったのだろう。

私はまだ自分がADHDだと診断をもらっていたわけではないが、従弟が少し周りの人間よりも変わっていて、もしかしたら発達障害があるのではないかと言うことには気づいていた。
もちろん、自分にも何かあるであろうと言うことにも気づいていた。

なるべく昼間は避難所を出て、外を一緒に散歩しよう、と声をかけて歩いて一番近いコンビニまで二人で一緒に歩いた。
一度、普段なら空である商品棚に、小さなカップラーメン2,3個だけ置いてあったことがあり、私はそれを購入すると従弟に振る舞った。

やっと食べ慣れた、好きな物を食べることが出来たと言って、とても喜んでくれた。

その廃校の中心部には少し広間のようになっているところがあって、多分木琴などが置いてあったので小さな遊戯場のように使われていたのだと思うのだけれど、そこにテレビがひとつだけ置かれていた。
昔の学校の教室によく置いてあった、電気ストーブもひとつだけだ。
その近くに唯一携帯の充電ができる場所があって、なんとか避難してきた人たちで充電器を持ちより、交代しながら携帯を充電していた。

父と母は、叔父と叔母と従妹たちの側に布団を持っていって、そこで寝ているようだった。
私は車で寝ることにしていた。
私が不眠症な上に、薬を持って避難してきたわけではなかったので、全く寝なかった為だ。
ADHDなので暇に耐えられない。
なので起きている限りよく外に出る為、教室内に寝床を作ってしまうと夜中に私が移動するたびに眠っている人に迷惑がかかってしまう。
だから一人でずっと車にいた。
ガソリンはとても貴重だったので、もちろん暖房をつけることも出来ない。
ひたすら寒かったことを覚えている。

3月14日。私が広間の木琴でカノンを弾いて遊んでいた時だった。
周りには、避難して来ている小さな子供たちがいて、私にアレを弾いて、コレを弾いて、と強請っている最中だった。
後ろにはテレビ。
いつも人がたくさん群がっていて、よく観ることはできない。

声が上がる。
「もうダメだ」と誰かが言う。

振り返った私が、テレビ画面の中に見たもの。
それは、煙が上がっている、よく見慣れた原発のある風景。
そう。
煙があがっている。
でも音がない。
爆発したならば、音は?と、どうでも良いことを思った。

それと同時に、「もしかしてもう、帰れないんじゃないの?」と私は思った。

今でも家の庭に首輪で繋がれ、お腹を空かせているはずの犬たちのことを、想った。



       続きます。


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