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「それでもまだ私は失う」⑦

小学校の時なんかの私は、放課後になればとても元気に、海や山、高台、草原、大いに私たちを囲んで育んでくれていた自然の中を友達と自転車で駆け回っていた。

たまには大人しく家の庭でおままごとなんかをしたりもしたが、時に立ち入り禁止と書かれた看板が掲げてある有刺鉄線の張り巡らされた山の中になんとか踏み入って野花を摘んだり、虫を取ったりもするような、野生児的な生活を好む子供だった。

休みの日には祖父母に誘われ、従弟たちと一緒に川で鮎釣りを楽しみ、その場で鮎ご飯なんかを炊いてもらって食べたりもした。
祖父と妹と共に山深くにキノコを取りに入ったりして迷子になり、捜索隊を出されそうになったこともある。

そんな素晴らしい自然の中で過ごしてきたと言うのに、とくに強く記憶にあるのが、友人と共に畑に隣接していた田んぼでタニシやザリガニを見ていた時に、「ワッ」っと大声をかけられ背中を叩かれ驚いて牛糞の沼に落ちたことだったりする。
ひどいでしょ。その心の無さにビックリだよ。

とにかく私はメンヘラの片鱗をのぞかせながらも、一応小学校までは元気いっぱいな野生児だった。
とりあえず暗くなる前には家に帰れば良いと言う感じだったので、外で遊びまくっていた。

たまに、父の逆鱗に触れ、庭にほおり出される真夜中には、あの故郷の自然に抱かれた。
父が私たちの幼い頃に近所のペットセンターで購入してきたマメシバを抱きしめて、涙を流しては、よく星空を眺めていた。
泣いてばかりいても仕方はないのだけれど、意味もわからず涙は勝手に次から次へと溢れ出た。

でもそれが当たり前だったので、他の家の子供も皆このような目には合っているものだと思っていた。

ある日の夜も、故郷に抱かれながら早朝までぼんやりとして、朝日が昇る少し前に自転車に乗るとペダルに足をかた。
思いっきり体重をかけて立ちこぎをしながら海までの道を走った。
海までの道はけっこう長い下りの坂になっている。

とんでもなくスピードを上げて、どんどんどんどん海へと向かう。
耳を切る風の痛みも、鼻を掠める朝のぼんやりとした淡い白さも。
全てが私の故郷で、私を生かしてきたものたち。

生きていると感じながら、私は海に着くと自転車を停め、洋服のまま冬の海の中へとジャブジャブと歩いて進んで行った。
どこまで行けばいいのだろう。
どこまで猛スピードで生きればいいのだろう。

海は柔い波を立てる度に私の胸を打って、まるでお互いの心臓の音が触れあっているようだった。
後どのくらい進めばいいのだろう、そんなことを考えながら胸上まで完全に波に浸かった時だった。

上空でヘリコプターが旋回していた。

「やべえ」

私が咄嗟に思ったのは、それだ。
見つかった、と思った。
このままでは、大変な大事になってしまうと思った。

フルスピードで自分だけの世界に陶酔しきっていた私の物語は終わりを告げた。
だって、助けられて生きていて大事にでもなったりしてしまったら、私はさらに父親からフルボッコにされ、母親からフルボッコにされ、とにかくハチャメチャに怒られ、ぶッ飛ばされると思った。

私にとっては、死んでしまうことより生き残って両親に怒られることの方が恐怖だった。
私は慌てて、なんとか海水を吸って重たくなった服を引きずりながら、方向転換をした。
その方向転換すらも、何かとてつもない大きな自然の力によって阻まれているようで、なかなか体が捩じれなかった。

自然は偉大だ。
私の真実の気持ちの方をくんでくれるものなのだな、なんて思った。
でも今はダメだ。
見つかってしまった。
また今度、また今度、と繰り返し呟き、なんとか両腕で波を掻き分けると砂浜まで時間をかけてたどり着く。

自然は私に身を任せても良いといつでも言ってくれた。
けれど、そう上手いタイミングがあるわけでもなかった。

私はここで生きてきた。
まるでたまたま生かされたかのように。
どれだけ心が死にたいと泣きわめいていようとも、体は生きたがっているのだと、そう教えてくれたのだ。

私の体は、なんだかんだ言ってもいつも結局死から抗った。
大自然に囲まれて、不自由だけれど最高に自由だった。
そんな時期を、時間を過ごしてきた場所なのだ。
美しい物をたくさん見せてくれた。
果てしない途方もない様々な想いに心を馳せた。
それだけの時間を過ごして来た場所なのだ。

今の私の心を作った。
そういう感じ方ができる私の心を作った。
そんな場所だ。
それが私の故郷だ。

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