「トゥキディデス(Thukydides)の罠」(台湾を巡る米中)
米中関係の緊張の問題に古代の歴史学が光を当てている。
『軍事的対立を通じて覇権国の交代がもたらされるケースの方が、歴史的に見ればより一般的』であるということを、米国の政治学者グレハム・アリソンが、古代ギリシャ(アテネ)のトゥキディデスの名前を用い、トゥキディデスの罠(The Thucydides Trap)」として警告している。
トゥキディデス(Thukydides
(前460ころ―前400ころ)とは『
古代ギリシアの歴史家。トラキア地方に富と勢力をもつ、アテネの有力貴族の家に生まれた。保守派の政治家キモンとも縁続きであったと思われる。しかし、彼は青年期に民主派の指導者ペリクレスをめぐる若者のグループに属し、自然哲学者アナクサゴラスらに学んだらしい。
紀元前431年、アテネとスパルタとの間にギリシアの覇権をかけたペロポネソス戦争が起こると、彼はこの戦争が史上最大の規模に達するであろうと予測し、その戦況を逐一記述することを決意した。前424年にアテネ軍の将軍となり、トラキア地方のアテネ植民市アンフィポリス救援のために艦隊を率いて出動した。しかしこの作戦は失敗に終わり、彼はその責任を問われて二十年の追放処分を受け、トラキアの自己の所領へ亡命した。ここで彼は金山経営の収益によって十分な生活の余裕を得るとともに、広くギリシア各地を訪れ、事件の正確な情報をその参加者や目撃者から収集した。また、追放の身を逆用し、両軍から等距離の位置を保つことによって、戦争の経過を公正な見地から観察することができた。追放処分が終了し、前404年に戦争がアテネの敗北で終わり帰国しその後数年間著作活動に専念したのち死亡した。代表作は、ペロポネソス戦争を実証的立場から著した『戦史(ペロポネソス戦争の歴史)』(Ιστορία του Πελοποννησιακού Πολέμου) である。
この時の経験によって双方を客観的に観察することができたとも言える。また、トゥキュディデスの罠などの概念を生み出したと伝えられる。
『戦史』の記述は紀元前411年の記述で打切られる(それ以降も彼は生き続けたので、少なくとも中断は死によるものではない)。後に哲人ソクラテスの弟子クセノポンが中断部分から筆を起こし、紀元前362年までを記録した『ギリシア史(ヘレニカ)』(Ἑλληνικά) を著し完成した。
『アリソンが率いるハーバード大学のベルファー・センターの研究によると、過去500年にわたる新興国とその挑戦を受ける覇権国との関係を示す16の事例で、実に12件までが戦争に至った、つまりトゥキディデスの罠が当てはまったと分析している。また、20世紀に日本が台頭した際の日露戦争、太平洋戦争などもこれにあたるという。他方、戦争を回避できた事例でも、覇権国が国際システムやルールの改変などの大きな代償を強いられたとされる』
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