【エッセイ】人はいつになったら『最後』にできるのか。

数日前、祖母の家を売りに出すということで、片付けに行った。
東京から約2時間。神奈川県湯河原町。
温泉街として名の高いその場所に祖母の家はあった。

『ここは見た?』

「んー、そこはね、、、」

私とお母さんと弟が片付けを進める。

ダンスを一段ずつ開けて、必要なものはないかテキパキと仕分けを進める。

金品と衣服と、書類。
なんでここに入っているんだろうという食糧が出てくる。

『ねえ、見て、こんなところからお菓子出てきたんだけど、そんなことある?』

談笑をしながら手をうごかす。

そのまま少し作業を進めていた中、後ろから声が聞こえる。

『何してるの?』
祖母の声だった。

「ばーばの家売れたから片付けてるの」

『え!?何?なんで?売っちゃったの? 私ここに住んでるのに』

「住んでないじゃん。もう私たちと一緒に住んでるんだから」

『じゃあ住むから。私が片付けるから。』

「今のばーば1人で住めないの。それにもう売れちゃったから、片付けないと、もう時間がないの」

母の口調が強まる。

祖母は数秒黙り込んだ後
『しょうがないのかもしれないけど、私が死んだ後にしてよ。何も生きてる間にやらなくてもいいじゃない。』
とポツリ。震た声で言った。
今にも泣きそうな目をしていた。

泣きそうになった。
私が泣くのは違うのかもしれないけど、泣きそうになった。

祖母は認知症を発症し、施設で大半を過ごし月に数日私の実家に帰ってくるような生活を送っている。
今はこの家には住んでおらず、少なからず5年は住んでいない。

誰が見てももう1人で住むことはできない、片付けることもできないことは明白だった。

この家は、維持費だけがかかっている状況で、家を売ること、それに伴う片付けをみんなですることは仕方のないことだった。
こうせざるおえないことだった。

その後、祖母を近くにある祖母の姉の家でご飯を食べるということで、祖母を送って行き、母と2人きりで片付けを再会した。

少し物が少なくなり、祖母が住んでいた時より年季の入った部屋を見渡す。

空っぽになった仏壇、がらんとした和室。
生活感の残った水回り。 

息を吸って、つぶやく。

『なんかさ、この部屋って、おばあちゃんとおじいちゃんが集めた大切なものの集合体で、生活した時間が刻まれてる場所なんだよね。
それが急に無くなるって言われたら、悲しくなるし、手放したくないことも凄くわかる。私だったら、、って思った。なんか、可哀想なことしちゃったね。』

「そうだね。可哀想なことしちゃったね。一緒に来たらダメだった。どうしたら良かったんだろう。」
ぽつり。母も言う。

泣きそうになった。

また黙々と作業を始めたが、やるせない匂いだけがその場所に漂っていた。

仕方の無いこと。
仕方がないんだ。
でも、仕方がないでは気持ちの整理がつかないと思った。

そういうことが増えることを大人になると言うんだろうか。

最後。最後だと分かっていても実感は湧かない。
湧いたことは無い。
卒業の日。バイトの最終日。前職の退職日。好きなお店の閉店前の最後の日。恋人と別れた日。
そういう最後が沢山あった。
でも、最後はいつも最後でない気がした。

確実に最後なんだけど、その最後の中にいる間は、のかも知らないまだその場所と時間はある。
だから私は最後だと思うことが出来ない。
確かに私は最後の中にいるんだから。

最後に振り返って建物を眺める。
次にこの場所に来る時、もうここには何もない。

きっとその時にあの時が最後だったんだと実感するのかもしれない。

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