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【読書記録】金田一秀穂『あなたの日本語だいじょうぶ? SNS時代の言葉力』【言葉の進化or退化】

言語学者の著者による、令和時代の言葉たちに思うこと。
近頃の言葉は、とにかく省略、短縮をしているような感じがします。
言葉だけではなく、全ての事柄に関して「コスパ」「時短」、とにかく「はやさ」というものに価値を置かれているような…。
マイペース人間には窮屈な世の中、もう少し余韻を大切に生きたいと思ったりします。


印象に残った部分を引用します。

 人は、直接会っているときには、相手の体温とか匂いとかを感じあっているのだという説がある。しかし、私たちは人と会っているときに、相手の体温を感じたり、体臭を嗅いでいるだろうか。そんな密接なかかわりあいを持つ相手はめったにいるものではない。(中略)
 古本屋や図書館に行くと、一冊一冊の本にも気配があるのがわかる。元の持ち主がイメージされることもあれば、最近、誰かが借りて読んだんだな、と感じられることもある。
 本や書棚が並んでいるだけなのだが、居心地のよさとか悪さとか、親しみやすさとか敷居の高さとかといった空間の生み出す気配がある。

p.14,15,17

 日本人は、言葉を使うとき、気配を含める。
 たとえば英語で「cup on the desk」と言えば、「机の上にコップがあります」という意味になる。(中略)
 しかし日本語では「机の上にコップがあります」とはあまり言わない。普通は「机の上にコップが置いてあります」という言い方をする。
 コップがただ存在する、というのでは日本語にならない。
 日本語では、人が「置く」という行為をした結果として「存在する」結果になった、ということから、どうしてそのコップがそこにあるに至ったかを含めて、「置いてある」、と表現する。それはつまり、人が何をしたのか、という過程までを気配として扱い、言葉に組み込んでいるということだ。

p.24~25

 小説や評論、詩などもチャットGPTでつくれるというが、それは無理だと思う。形としてはそれなりのものにはなっても、その良し悪しを誰が評価するのか。チャットGPTではない。生成AIは、作ることはできても、作ったものを評価することはできない。おいしい料理を作ることはできるけれど、おいしがることはできない。

p.39

 勉強というと、知識を増やすことだと思い込んでいる人が多い。しかし、知識だけならネットに任せたほうがよほど正確だし量も多い。彼らは一度覚えたことを忘れないし、24時間すぐに答えてくれる。人がすべきことは、詳しい知識や情報をネットで集積して、その知識や情報を新しくつなぎ合わせて、その人なりの考えを作り出していくことであり、それがこれからの時代に評価される能力だろう。どのように使うかが大切になる。

p.58

 日本語を大切にするというのは、正直な言葉遣いをすることなのだ。
 しかし、これは恐ろしく難しい。自分がどんなであるかは、自分のことでもちっともわからない。しかし、人は自分がどんなであるかを分析し続け、理解し続け、考え続けなくてはならない。そうしてはじめて、自分の言葉が自分をそのまま表しているかがわかる。
 そうした人は、自分の言葉で語ることができる。
 その様な境地を作るためには、私たちは日本語を知らなくてはならない。

p.66

 観智院本三宝絵詞という、仏教の入門書が10世紀に作られている。そこに、〈仏は一音に説き給へれども、衆生はしなじなにしたがひてさとりを得る事、雨は一の味にてそそけども草木は種々に従ひてうるほひを得るがごとし〉とある。
 仏の言葉は一通りであるが、それを学ぶ人々は、それぞれの事情に応じて悟りを得ていく。
 それはまるで、天からの雨が一通りの水にすぎないものであるのに、草や木はそれぞれがそれぞれの仕方で潤うようなものである、という。
 大変美しい比喩である。草木が潤うのは、人々が悟るのと同じであるという。悟りのような幸せな体験と同じように、潤いというのはある。逆に言えば、潤うことは、悟りに至るような大切な糧のようなことであるというわけだ。

p.131


言葉って、日本語って面白いですね。
現代の言葉が日本語の進化か退化かは分かりませんが、異国の言葉と思わない程度には新しい言語も知っておきたいとは思います。
使いこなせるかは、別として…。

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