2020.2.21 ロンドン旅行記2日目 前編
右腕に痺れを感じて目が覚める。どうやら寝ている間に腕を下敷きにしてしまっていたらしい。窓の外は真っ暗。時計に目をやると、まだ朝の5時だ。寝てていい時に眠れず、寝たくない時に眠くなる。30年経っても身体のコントロールは一向に上手くならない。二度寝を試みるも寝付けそうにもないので、ひとまずシャワーを浴びる。あっ、シャンプーを用意するのを忘れた。致命傷にはならないが、こういった小さなミスが少しずつ自分の自尊心を削っていく。朝食は7時からで、1回5ポンド。7時までまだ時間があるので、今日の行程を考える。どこにでも行ける自由は、どこにも行く場所がないということでもある。ワクワクする期待を100とするなら、どうしようと募る焦りは3000だ。7時過ぎ、受付に降りるも誰もいない。遠くから食器のカチャカチャと当たる音と談笑する声が聞こえてくるが、他の宿泊客が既にいるのだろうか。お金を払わないといけないため、『Back in a Few Minutes.』の言葉を信じて待つ。20分後、ようやく声のした方からスタッフが戻ってきた。
いや朝ごはん食べてたんお前かい!7時から客が食べるとするなら、スタッフはそれよりも早く食べているものという思い込みは悪い日本人の発想だろうか。まあいいや。5ポンドを払うと、朝食の待つ地下の部屋まで案内される。
急に聞かれても自分が今トーストを食べたいかどうかわからない。YESかNOか、困った時はとりあえずYESだ。ホテルの朝食はビッフェ形式。トーストにクロワッサン、シリアルにクッキー、バナナとりんご、そしてオレンジシュースとコーヒーメーカーが並んでいる。おかずと呼べそうなものは薄くスライスされたハムとチーズだけだ。見た目通りの味のパンを口に運び胃を膨らませる。コーヒーとオレンジジュースは、どこで飲んでも美味しいから偉い。
↑慎ましいホテルの朝食。一回5ポンド。日本円で690円ほど。
この日の予定はテート・モダンと事前に調べていた服屋巡り、そして夜には待ち望んだTHE 1975のライブだ。ただそれ以外の空白をどう使うか。以前アナザースカイで乃木坂46の齋藤飛鳥がウォータールー駅の近くのグラフティがあるエリアを訪れていたことを思い出す。なんとなく歩いて行けそうな場所に目星をつけ、残りはGoogleマップに託すことにしよう。
平日の朝だからか電車の中は通勤途中という雰囲気の人が多い。ロンドンにもラッシュアワーはあるのだろうか。そこそこの人波に揉まれながら電車に揺られる。駅を出て5分ほど歩くと、目的地のリークストリートだ。ここはなんの施設でもないただのトンネルだが、壁から天井にまで、視界一面にグラフティアートが描かれている(かつてバンクシーもここに絵を残したらしい)。壁には常に新しいグラフティが描かれているようで、今自分の見てる絵もいつかは消えてしまう。当然、齋藤飛鳥の残したグラフィティは既に消えていた。「ここが私のアナザースカイ」。脳内で自分を動かしながらナレーションを入れてみる。全然サマにならないな。
リークストリートを後にし、ウェストミンスター橋からナショナルギャラリーへ向かう。ビッグベンは2021年まで改修工事に入っており、その姿は拝めなかった。けれどテムズ川、ロンドン・アイ、ビッグベンに囲まれたこの橋からの景色は、十二分にロンドンを感じさせてくれる。道中寄り道した先はセントジェームズパーク。散歩する親子、ランニングに精を出す青年、ミット打ちをするボクサー。ちょっと笑ってしまうほどの数の水鳥が、園内を騒がしく移動している。
午前10時。オープンと同時にナショナルギャラリーの中へ入る。ナショナルギャラリーは正直自分には難しい。中世から近世にかけてのヨーロッパの歴史と宗教に関する知識の乏しさから、その作者や作品が当時どのような役割を担っていたか、ピンとこない。英語で書かれた解説文を読んでみるも、専門的な上にバックボーンがないからさっぱりわからない。というかそもそも英語がわからない。「これが◯◯◯年前の作品なのか、凄いなー」。精巧な技術と保存状態、そして時間という壁を超え、その作品が今目の前にあるということへの感慨だけが、胸を高まらせる頼りだ。自分の身の丈を超える絵画がかつて集めていただろう畏怖を、頭の中で精一杯想像してみる。
ナショナルギャラリーを軽く回った後はソーホー地区で服屋巡りへ。ロンドンはその気になれば歩いて主要なエリアを移動できるほどコンパクトだ。Dover Street Market.からSupreme、PALACE、Machine Aと梯子していく。欲しい服を見つけるも、どこもかなり割高だ。なんせロンドンは物価が高い。日本でも買えるアイテムなら、日本で買った方がお得な気がしてくる。おまけに服を見ている時、英語で話しかけられると心臓に悪い。日本でも服屋で店員に話しかけられるのは苦手なのに、英語でなんて尚更だ。いくつか物色して目星をつけるも購入までには至らず、ソーホー地区をぶらぶらと彷徨う。
昼食はソーホー地区近くの中華街に行こうと決めていた。しかしこういう時、下調べをしていないことが完全に裏目に出る。「どこに入ればいいか全くわからん」。中華街の中をひしめきあうお店を端から順に見ていくも、全部同じに見えてくる。メニューもだいたい似ていて、手掛かりがひとつもない。とりあえず炒飯が食べたいな。常にパンより米派な自分は、やはり日本生まれ日本育ちなのかもしれない。一つの店の前で立ち止まっていると、店員らしき中国人が声を掛けてくる。
さっっっぱりわからん。英語はわからないなりに単語が聞こえる時もあるが、中国語はマジのマジで一つもわからん。「ソーリー。アイムジャパニーズ」。そう答えると、悪い悪いと言った様子で店に戻っていく。中から現れた別の店員と話してる様子を見ると、どうやらタバコの火が欲しかったみたいだ。自分は中国人に見えてるのか?日本にいると、韓国人や中国人など、アジアの他の国の人と日本人はなんとなく雰囲気で見分けがつく。でもヨーロッパにきたら、アジア人というより大きな括りに入れられ、中華街の店の違いが分からないように、その差異はどんどん小さなものになっていくのかもしれない。悩んでてもしょうがないので適当にお店に入る。躊躇して店の前を3回通り過ぎた昨日よりは、僅かだが前進しているはずだ。
昼食後はライブを除けばロンドンで一番楽しみだったテート・モダンだ。テート・モダンは主にモダンアートを中心とした展示会が多く、ナショナルギャラリーに比べるとより感覚的に楽しめる(と自分では思ってる)。北館と南館の二棟が並び、それぞれ常設展と特別展が分かれていて、全てを見て回るにはかなりの時間が必要だ。
自分の知らなかった世界に、作品を通して入り込むような感覚は美術館の醍醐味の一つだ。もちろん全ての作品を理解できるわけではない。でもそんな時は、色が綺麗とか、タッチが好きとか、なんとなく気になるとか、楽しみ方はそんなもんでいい。大学生の時に読んだ岡本太郎の本に、確かそう書いてあったはずだ。
常設展のテーマは「アーティストと社会」。人種差別、貧困、権力との癒着、フェミニズム、環境破壊、戦争。いつの時代にも存在する社会問題に対して、芸術家はどういう作品を残し、どういう表現を行なってきたか。時代も国も問わない。しかしそこには常に闘いの歴史がある。海外を見ると、日本と同じような問題やジレンマを抱えてる国が沢山あることに気づく。文化や慣習の違いはあれど同じ人間。"時代"というものは確実にあって、自分もその歴史の1ページを生きている。今世界中で問題になっているコロナウイルスも、未来の教科書に刻まれているだろう。遠い国の、知らない誰かのことを考える意味はあるのだろうか。わからない。でも世界で起こった出来事が、容易に自分の生活に浸食してくるのが現代だ。日々の暮らしは何によってもたらされているのか。闘わない自分に、目の前の闘いの歴史が問いかけてくる。人類は幾多の過ちを犯してきた。その度に、政治家が、マスコミが、芸術家が、市民が、声を上げた先にあるのが未来と呼ばれた今だ。自分が胡座をかいているこの平和は、希望と呼ばれた礎でできている。自分はその事の意味を、どれだけわかっていれてるのだろうか。
(後編につづく)
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