「バイオショック」のストーリーを徹底解説する
2016年、2Kによってリリースされた「バイオショック コレクション」。
今回はその中でも初代「バイオショック」を紹介したい。攻略情報ではなくストーリー解説がメインになるので未プレイの人はネタバレ注意
海底都市ラプチャーの理想と現実
西暦1960年、大西洋に一機の旅客機が墜落する。海上に放り出された主人公ジャックは乗客席から脱出を果たし奇跡的に生き延びるのだった。波に飲まれながら海を横断するジャック。灯台がシンボルの小さな島に上陸する。
ジャックは島の探索を始める。灯台の中を探ってみると、そこには球体型潜水艦が一隻眠っていた。興味本位で潜水艦内部の機材を弄ると次の瞬間、ハッチに自動ロックがかかりエンジンが起動してしまう。予め設定されていた目的地に向けて動き始める潜水艇。ジャックを海底の世界へ案内するのだった。
ラジオから男の声が聞こえた。声の主はアンドリュー・ライアン。かつて天才科学者として名を馳せた彼は、ある社会の実現を試みたという。科学者や芸術家、エンジニアたちがその才能を遺憾なく発揮することのできる世界。政治的に宗教的価値観に左右されることなく、自由気ままに振る舞える理想郷。いかなる者にも阻害されることなく己が幸福のみを追求できる、そんな社会の実現をライアンは渇望したのだった。
海底都市ラプチャー。ライアンは自らがその創設者であると語った。その言葉に偽りはなく彼の野望はすでに現実のものと化していた。その証拠に潜水艇の窓に映る高層ビル群の光景は紛れもない本物だった。
冷戦の真っ只中で米国とソ連が宇宙開発でしのぎを削る中、ライアンは水中都市の建設に奔走していた。現代のテクノロジーでは実現不能とまでいわれていた海底都市を見事に建設してみせたのである。
実際、この物語の舞台となる六〇年代は海底居住への関心が高まっていた時代でもある。アメリカ海軍主導で海底居住実験が行われたのも、まさにこの時期だった。
残念ながら海底都市と呼べるようなものは二十一世紀になった今でも登場してない。技術的な壁はもちろんだが、それ以上に経済的理由で実現は難しかった。施設の建設やそれらの維持費に加えて、海上で潜水支援体制を維持し続けるには莫大な費用がかかる。水深100m以下の暗黒の世界でそれに見合うほどのリターンがあるかといえば無論そんなものはない。コストパフォーマンスが最悪であることに世界中の科学者たちが気が付いた頃には、すでに海底移住の夢は時代遅れになっていた。かくして海底都市は懐古趣味的未来(レトロフューチャー)の代名詞になったのである。
大西洋の海底に眠る都市。しかしそれ以上に驚くべきことがあった。潜水艇から降りたジャックを出迎えたのは凶暴化したラプチャーの元住民たちだった。薬物アダムによって身体機能を大幅に向上させた人々は、それと同時にその精神を蝕まれ人間性を喪失していたのだ。
薬物の流行と科学者たちの功績を巡る争い、そして資源の奪い合い。ラプチャーはいとも容易く崩壊した。住民たちの大半は理性を失い、その影響で都市機能が低下。人類のロマンその集大成であったはずの海底都市は、理性なき怪物たちの手によって完膚なきまでに荒らされ、かつての栄光を取り戻すこともなく朽ち果てていった。
ジャックは無線機から声を拾い上げる。男の名はアトラス。ラプチャーで家族を見失った彼は、その救出をジャックに依頼するのだった。アトラスの案内を頼りに、ジャックは荒れ果てた海底都市ラプチャーを探索することになる。
深海の奇妙な生態系
ラプチャーを散策していると、棍棒や拳銃で武装したスプライサーの他に、奇妙な光景に出会すことがある。ビックブラザーは巨大な潜水服とドリルが特徴的な改造人間であり、その傍らに寄り添うリトルシスターは注射針をもつ十歳前後の少女である。リトルシスターは元人間の子供であるが、特殊なウミムシに寄生されてしまい、今では死体からアダムを抽出するだけの機械人形になり下がっている。
なぜ屈強なビッグダディが年端もいかない少女を護衛しているのか。それを知るには、まずラプチャーの生態系について理解しておく必要がある。
リトルシスターは荒廃したラプチャーでアダムを生成する唯一の手段である。人間の死体からアダムを抽出する彼女は、アダム中毒に陥ったラプチャーの住人(スプライサー)によって命を狙われている。リトルシスターはか弱い少女で自己防衛手段をもたない。だからビッグダディは彼女たちの代わりにスプライサーを撃退するのだ。戦闘行為の対価として、ビッグダディはリトルシスターから少量のアダムを譲り受けるのだ。
二人の関係性は生物学おける相利共生を想像するとわかりやすい。例えば、アリはアブラムシをその外敵であるテントウムシから守ることがある。アブラムシはその見返りとして余剰分の甘露をアリに提供するのだ。この場合、アリ=ビッグダディ、アブラムシ=リトルシスター、テントウムシ=スプライサーということになる。
本作では、ラプチャー内部を自由に徘徊するビッグダディーを倒し、さらにリトルシスターからアダムを奪うか、プレイヤー自身で選択することができる。ビックブラザーとの戦闘を選んだ場合、当然ながらそこには大きなリスクが伴う。攻撃力と耐久力のあるビッグブラザーは、他の雑魚敵とは違い初心者であればほぼ間違いなく回復アイテムの消耗は避けられない。しかし戦利品として得られるアダムは、プラスミド(攻略が便利になる超能力)強化に欠かせない存在であるため、プレイヤー心理としては、少しでも多くのアダムを確保しておきたいところである。
苦労してビッグブラザーを倒すと、今度はリトルシスターを殺すか否かの選択ができる。お察しの通り、この二択は少々意地悪にできている。大量のアダムが入手するためにはリトルシスターを殺害しなければならない。逆に少量に留めた場合、彼女らをアダム採取という使命から解放することができるのだ。実はこの駆け引き、 単にプレイヤーの倫理観が試されるだけでなく、物語上でも非常に重要となってくる要素でもある。それについてはまた後ほど触れていきたい。
人間としての死 奴隷としての生
さて、アトラスの家族を探すジャックだったが、紆余曲折あってその目的は徐々にすり替わっていく。
「恐縮だが、あいつを殺ってくれないか」
海底都市ラプチャーの創設者アンドリュー・ライアンの殺害を依頼するアトラス。それに対して文句一つ言わず応えるジャック。控えめにいってサイコパスである。もちろん、ジャックがライアンに対して復讐を行う理由については長い旅路の中である程度説明されている。しかし殺人を請け負うというのは異常だ。やはりどうにも腑に落ちない。良識をある人々ならば、この二人のやり取りから何かしらの違和感を覚えて然るべきなのである。
だが、実際にゲームをプレイみるとそうは感じない。ライアンの殺害実行して当然だと思ってしまう。このあたりの感覚はとても不思議である。
・・・・・・そう、これはゲームなのだ。ゲームである以上、ボス敵を倒すのは当たり前なのである。そこに異議を唱えてしまうのはゲーム性の否定に他ならない。その文脈を心得ているプレイヤーは、本来抱くべき感情に蓋をして次の展開に期待する。無意識のうちに感覚を麻痺させてしまうのだろう。
バイオショックは、そういったゲームの約束事に慣れきったプレイヤーの心理を巧みに掌握して誘導する。お約束事への疑念、ゲームという概念の破壊、それこそが本作に仕掛けられた最大のトリックなのだ。
「結局のところ、人間と奴隷の違いとはなんだ? 金か権力か? いや・・・・・・人間には選択することができるが奴隷は従うのみだ」
by アンドリュー・ライアン
ジャックと対峙するライアン。彼はジャックに真実を打ち明ける。ジャックの記憶は人為的に生み出されたものだということ、そして、アンドリュー・ライアンの殺害を命じられた暗殺者の遺伝子はライアン本人のものであることを。
お前の決断は果たして本当に自らが掴みとったものなのか?ライアンは息子にそう問いかける。無論それは、製作者の指示を受け入れることでしか成立できない、ゲームの限界を指摘するものでもある。
「人は選択し、奴隷は従うということだ。殺せ。人は選択できるが、奴隷は従うだけだ。従え!」
by アンドリュー・ライアン
ライアンは自らの殺害を命じる。指示通りジャックはゴルフバットでライアンを殴り殺す。このときコントローラーが言うことを聞かなくなるのは、プレイヤーが機械人形でしかなかった、という皮肉が込められているからである。目的を果たしたにも関わらず我々はこのシーンで大きな敗北感と挫折を味わうことになる。
基本的な概念は「人間は自分自身の為に存在している」。「自らの努力によって得た物は、自分自身が享受する権利を持つ」。「自己の幸福を追求することはもっとも道義的な手段であり、自分自身を他人の為に犠牲にしてはならない。また他人に自己への献身、犠牲を強いるものでもない」。 「人間の理性だけがリアリティを受けとめる手段であり、行動への指針となるものである」。ただしこれは利己主義とは違う思想である。
http://seiryu.cside.to/RPG/BioShock/BioShock-story.html
利他主義を憎悪するライアンは、他人の利益を貪る人間を「寄生虫」、選択を放棄する人間を「奴隷」として蔑んだ。自らの意思で命を落とすライアンと、他者の指示によって殺害を敢行するジャック。この二人の対比は、ヒトとはどう在るべきかという問いかけそのものでもある。
ライアンの価値観に基づくなら、ジャックもといプレイヤーは自ら選択を捨てた「奴隷」に他ならない。一方で、ライアン本人は、人間として尊厳ある死を自ら選択した「ヒト」である。死を超克して自らの信念を貫き通すライアンの行動は、本作最大の見せ場であると同時に、プレイヤーに屈辱感を植え付け、彼の思想を嫌と云うほど意識させるのである。
理想都市ラプチャーが抱える矛盾
ライアンの殺害に成功すると、今度はアトラスに異変が起きる。それもそのはずで、これまでジャックの行動を支配してきたのは彼なのである。
アトラスの正体はフランク・フォンテインという男だった。密輸業者として才能を開花させた彼は、かつてラプチャーに一大勢力を築き上げた権力者でもあった。
ラプチャーの財産を地上の人間に売りつけるフォンテインは、ライアンにとって「寄生虫」そのものだった。それと同時に、ライアン本人がその信念を曲げなければ対峙できなかったラプチャーの「矛盾」を体現する存在だった。
個人主義が台頭するラプチャーでは、あらゆる行為が容認されている。フォンテインの密輸売買もクズ同然の行為であるが「個人の幸福を追求する」というラプチャーの理念からは外れてはいなかった。だから彼が罰せらなければいけない理由は存在しないのである。にもかかわらず、海底都市の創設者ライアンはフィンテインの勢力に畏怖して、彼を幽閉してしまった。このとき、ライアンのとった行動こそが理想都市ラプチャーが抱える矛盾そのものなのである。
ストーリー本編に話を戻そう。ライアンの殺害を完遂して用済みとなったジャックは、今度はフォンテインに追われる立場となる。
ジャックにとって、フォンテインは生きる目的を与えてくれる神のような存在だった。その神に見捨てられた今、ジャックは自らの意思で行動する必要があった。そのきっかけとなるのが、リトルシスターという存在である。
これまでのジャックは単に命令されてことを実行するだけの機械人形だった。そんな彼が唯一自らの意志で実行してきたこと、それがリトルシスターの救済である。ラプチャーの探索の中でリトルシスターを生かしたか殺したかによって、物語が分岐(変化)するような仕掛けになっている。ここにきてようやくジャック=プレイヤーの決断が物語に還元されるのである。
ここで面白いのは、リトルシスターたちにも心境の変化がみられるということだ。ジャックの手助けするリトルシスター。彼女たちは誰から命令されたわけでもなく、自らの意思でジャックの生かす道を選んだ。これまでアダム採取装置としてその使命のみを全うしてきた彼女たちからは、到底考えられない行動である。ビッグダディとの寄生関係を断ち切ることで、リトルシスターが獲得したもの、それは自らの意志で行動する「自由」だったのかもしれない。
「寄生虫」「奴隷」「人間」この関係性が綺麗にまとまったところで、物語はいよいよ佳境を迎える。フォンテインの束縛から逃れるため、ジャックは彼の殺害に動き出すのである。
「俺がお前を創造したのだ! 俺がお前を光へと導いたのだ。俺が呼び戻し、お前が何者かを教え、能力をも引き出してやったのだ!」
by フランク・フォンテイン
フォンテインとの最終決戦。その言い回しは、創世記における「光あれ」を連想させる。彼が指摘するとおり、ジャックはラプチャーの科学者たちによって創り出された存在だ。もし彼がヒトではなく道具であるなら、その身体、その名前、その記憶すらもすべてフォンテインの所有物ということになる。ラプチャーの理念(自らの努力によって得た物は、自分自身が享受する権利を持つ)に則って考えれば、子は親の創造物に過ぎず、そのすべては親に帰属するのだろう。
しかしそんなものは創造主の妄想でしかない。
ラプチャーでは、他者に阻まれることなく己が幸福を追求することが約束されていた。ジャックもリトルシスターも道具ではない。自由意志を獲得した人間だ。ゆえに子の自由意思が創造主によって侵害されるのは間違っている。
ジャックとリトルシスターは同じ立場の人間だった。そんな彼らがお互いに何を施し、何を与え、結果どのような最期を迎えたのか、それらについて語られることでバイオショックの物語は幕を閉じる。
ラプチャーの思想の体現者となるか、あるいはそれに相反する利他主義を実現するか。すべてはプレイヤーの判断に委ねられることになる。
※本記事は、作者のブログ「暫定語彙」の記事を一部再編して再アップしたものです。
http://scenariogoma.hatenablog.com/entry/Bioshock