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考え事#33 人生100年時代の通過儀礼

前回、通過儀礼について書いた。

今回はこれを、人生100年時代と言われている我々に当てはめて考えてみよう。

工業化社会が成立した頃の状況でいえば、
15歳→義務教育
16-22歳→中等教育+高等教育または職業人見習い
22-30歳→職業人見習いまたは一人前の職業人
30-50歳→一人前の職業人
50-60歳→ベテラン、若手育成者
60歳以降→隠居生活、ご意見役など

みたいなロールモデルを描けばよかった。
仮に、このロールモデルに合わせた通過儀礼として学校という場があるとして、100歳まで生きる人生において、たった一度の通過儀礼が効くわけがないのは明白だろう。

例えば蝶の一生でみれば、通過儀礼である学校が蛹だ。
蛹の期間を超えて羽化したら、それで一生やり切れる生命のデザインだ。

さて、いまここに何らかの手法で延命が可能になり、通常の数倍の期間羽化したまま活動できる蝶が誕生したとしよう。

こんなことを言ったら蝶に失礼かもしれないが、蝶のように人間よりも遥かに単純な行動原理をもった生物ならば、羽化後半の生き方に合わせてもう一度蛹のような状態を通り、別の行動原理で動ける変態を準備したらよいかもしれない。

ところが厄介なことに、人間は蝶よりは遥かに複雑な行動原理で動く知的生命体だ。
発達段階の顕在化には常に個性が絡み、社会適応のための2回目、場合によっては3回目の通過儀礼が必要となる人生のタイミングは、それまでの人生の過ごし方によって大きく異なることになるだろう。

その辺りの解決策として最近声高に叫ばれているのがリスキリングやアンラーニングという言葉だろう。ウェルビーイングにしてもそうだ。一見ちょっと新しくてカッコいい言葉に見えるが、あれは要は寿命が伸びた人類にとって新たに必要となった通過儀礼のことなのだろう。

さて、現在の学校、特に中等教育の期間は思春期と呼ばれるわけだが、通過儀礼の2巡目の時期にも、思春期と同じような発達段階が存在するはずである。

思春期は、語源から単純に性への目覚めの期間だ。その意味で、かなり生物学的な通過儀礼といえる。

その先の人生において、夏、秋、冬とは何を指すのだろうか。そこにはどんな通過儀礼があるのだろうか。

一考する価値がありそうだ。

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