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考え事#28 越境と自我崩壊について

新年あけましておめでとうございます。
2024年になりました。本年も細々と、書いていこうと思います。

2023年は、2度にわたる転職を経験し、1年間で本業としての職場を3つ経験しました。公立高校の教員を辞める前の自分と辞めた後の自分に何が観測されたのか、今回は書いておこうかなと。

[自分=自我+自己]という状態

公立高校で10年間。控えめに言ってもかなり働いた方だと自己評価している。特に後ろの5年間はわざわざ職住接近を選び、深夜まで教材を作ったり、校務を死ぬ気でやった。

結果、自分と学校との間には切っても切れない接続が形成された。
誰よりも勤務校のことを考えている自信があったし、少しでも学校のためになるように創意工夫をしながら仕事をしてきた。

だから実際のところ、これから先も異動する度にそんな働き方を自分に課していくことに限界を感じた。この、本気で取り組んだ20代後半~30代前半の働き方を今後も続けるなんてことはできないと思った。本音を言えば、あの現場で、仲間の先生たちともっと長く一緒に仕事がしたかった。あの学校の生徒達ともっと沢山話したり、一緒に悩んだりしたかった。

働き方改革って言葉がやや死語になりつつあるけれど、本気でやればやるほど学校の先生の仕事は本当に面白い。

越境による自我崩壊

そんな自分が学校を去るなんていうのは、冷静に考えれば相当馬鹿な話だ。
3月の自分の記録を改めて読んでみる。

素直に本心を書いているなぁと思う。
この時はまだまだ自我が色濃く生き残っていて、学校と切っても切れない自分の中の自我が大きく反映された文章だ。

仕事をやらされている状態をはじめ、嫌なことを"せねばならない"状態というのは得てして苦しいものだ。自我が自己に蓋をして、自己が苦しくなるからだ。

僕の場合は、本気で仕事を楽しんでやっていたので、始めは自我が自己に蓋をしていた状態だったかもしれないけれど、あるところからその自我すらも自己が侵食してしまっていたのだと思う。どこまでが自己で、どこからが自我なのか、その境目が曖昧な状態になっていたのだと思う。

学校現場を離れたことは、この絡まった自我と自己の強制分離に当たる。
だから、自我だけでなく、自己も含めて自分の全体が分からなくなった。

自我崩壊と自己発見

自我が崩壊して初めて、自己が見えてくる。
自己は、他者からの要請と一線を画した、一人称の世界における自分だ。

一人称の世界を見つけるための方法の一つが、上述した通り、何らかの形で他者からの要請を一度断ち切ることなのだと思う。特に、自己と自我の境が曖昧になってしまっている場合は、こうでもしない限り自己を見つけることが難しいのではないだろうか。



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