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生まれ直してまだ2週間/羨望は失礼

 多分、私が本当に書きたかったことが、書けてしまった。

 気づいたら前回投稿後2週間も経っていて驚いている。これだけ書かずにいたのは、書きたかったことが書けてしまったから。でも、noteは好きなので毎日見ていた。

 ここ2週間、現実世界の私は、調子が悪かった。人と会っては疲弊して、他の予定をキャンセルして、キャンセルのための電話にまた疲弊して、キャンセルした予定をまた再度組まなければいけないことに疲弊している。私は交友関係を限りなく狭く持とうと心していて、「この人と会って疲弊してもかまわない」人としか会わない。だから覚悟の上の疲弊なんだけど。私は普通の人に擬態して生きているが、中身はこんな感じで、すぐ疲弊して社会生活がおざなりになる。今日はなかなか起き上がれない。

 友人に私の状況を「うらやましい」と言われて、なんだか心がサーっとなってしまった。サーっとね。体も心もけっこう不健康なんですが、そしてこうなるまでに様々な過程があったのですが。まあでも地獄の部分ってそうそう見せるもんじゃないし、でもかなり心的距離が近い(仲の良い)友人だからある程度見せてるし知ってることも多いと思うんだけど、それでも私の状況が「めぐまれていて」「うらやましい」ようで、サーっです。羨望って失礼なんだな、と思ったりして。うん、羨望は失礼。

 私が「めぐまれていて」「うらやましい」立場にあるから、心の余裕とか疲れが違うから、「だからそんなこと言えるんだよ」のようなニュアンスだった。

 具体的に言うと、私の家の隣人のヒステリックな怒鳴り声の騒音に困っているという話をした時だ。彼女は、隣人の肩を持った。優しいひとなのだ。ヒステリックに怒鳴らざるを得ない、隣人の背景(ワンオペ育児や社会の非協力)に想いを寄せていた。たしかに、隣人には隣人の事情があって、隣人ひとりが悪いとは私も思っていない。ヒステリックな母親が孤独に子育てをしなければならない状況は、社会が変わるべきで、社会が支えるべきだと思う。ただ、ヒステリックな怒鳴り声というのは聞いていてとても削られるし、不愉快だから引っ越したいというだけの話なのだが、「めぐまれていて」「うらやましい」立場の私はそんな愚痴も言ってはいけないのだろうか。余裕のなさと疲弊を、隣人が持っていたとして。だから仕方のないヒステリーだったとして。でも私にだって、余裕のなさと疲弊がある。だけど、目に見えない私の余裕と疲弊はないことにされてしまう。それが「羨望」だ。「うらやましい」の一言で、目に見えない私の余裕と疲弊はないことにされてしまう。

 私は子に困ることはたくさんあれど、困るであってイライラではないし、ヒステリックに怒鳴ったことはない。基本的には子にも夫にも穏やかに接することができている。夫と家事育児負担で喧嘩になることもないし、なんなら夫には私より苦労しないでほしいと思っている。つまり、夫には私より楽して欲しい。夫も多分、私に夫より苦労しないでほしいと思っている。だから家庭内の仕事は、押し付け合いではなくむしろ奪い合いになるような面がある。これはめぐまれていてずるいことなんだろうか。私と夫の努力でもあるし、この状況を保つために様々な金銭的時間的体力的投資がある。

 羨望は、他者の余裕や疲労を勝手に定量化して、そこに付随する各々の事情や地獄は切り捨てているなぁと感じる。たくさんのことを切り捨てて、なんかしらのラインを決めて他者をそのラインに立たせて、よしこれで私とあなたは同じラインにいるから、比較可能になったね、とこれまた傍若無人な「比較」が始まるのだ。

 比較も羨望も失礼。私も気をつけよう。


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