Shallマインドの存在 ⑵言語と歴史的な背景から考える

目次
Mustマインドからの脱脚-前書き
前回記事
Shallマインドの存在
⑴Must・Want+Shallの構造

ここで、少し本題からは逸れるが、「なぜMustマインドに陥ってしまうのか」という要因について、「特に日本人はそうなりやすい」という仮説をもとに考えてみたい。

言語的・文化的な背景

これまでの内容で、あえて「Must、Want、Shall」と英語で言い分けているのは、別に横文字を使いたいからではなく、日本語ではその概念にずばり相当する言葉がないからである。

当然、日本語で「~しなければならない」「~したい」「~した方がよい」と言い分けること自体はできるが、「そもそもそこを分けて考えよう」という概念がない。

これは、白黒をはっきりさせる二元論的な思考である西洋文化と、明確に白黒をつけない一元論的な思考である東洋文化との違いが影響しているためだと思われる。

そのため、仕事をしていても「それはMustですか?」という確認をしたりする。

言葉として短いからというのもあるが、日本語だとそのあたりの感覚が曖昧な状態で指示が来ることが多いため、「どの程度の拘束力があるのか」という確認を行うのに便利だ。

日本はもともと「恥」の文化であるため、「~してはいけない」という概念には敏感である。その裏返しとして、「~しなければいけない」もまた敏感であると言えよう。

しかし、今からの自分の行動が「Must」なのか「Want」なのか、はたまた「Shallなのか」。もっと言えば、MayかShouldかCanかCouldか・・・と、行動の動機と可能性に関する英語での表現は多様である。

一方、日本語で、例えば「出欠を取りたいと思います」という表現だと、それがWantなのかMustなのか、WillなのかただのGoingなのか、よくわからない。

日本語は文脈に依存する言語であるためにそうなるわけだが、文脈が継承されず、ルールだけが残ったときに、それがMustなのかShallなのかよくわからなくなってしまう、ということが、昨今の日本で起きているのではないだろうか。

英語は西洋の言語であり、合理的で主語・述語・形容詞などを明確に分けて、基本的には文脈に依存しない

一方、日本語は主語も述語も正しい語順も曖昧なまま構文され、文脈に依存しながら意味を伝えていく傾向が強い。

ルールや基準、権利と義務などを明確に定義していくのは西洋人が得意であり、その辺は曖昧なままバランスを取っていく方が日本人には適していると言えるかもしれない。

そう考えた場合、これまで曖昧にしてきたからこそ、うまく回っていたものが、無用にルールが増え、境界が明確になってしまった今の時代に、やたらと「Must」を感じるようになり、疲弊してきているのではないだろうか。

ヒエラルキー

また、日本人は、日本という国がおおよそ成立したころから、明確な社会的ヒエラルキーが存在し、それに従って生きてきた。

細かい文化的な背景などは専門外ではあるが、日本人が「上下」という構造の中で生きてきて、それに慣れているということは間違いないだろう。

そういった意味でも、日本人は「~しなさい」という指示に対しての心理的抵抗が、他の国よりも少ないと言える。

参考としては若干微妙だが、日本は世界的に見ても縦社会であると言われている
https://www.alc.co.jp/business/article/gmkouza/010.html

そして、「Mustかどうか」ということの線引きも、言語的にあまり考えないため、「指示されたことには、とにかく従う」という構造になりやすいと言えよう。

こう言うと、日本人は無批判にすべて受け入れる、というようにも受け取れるが、意外とそうでもないのが面白い。

肉食が禁じられた時代には、動物の肉をすべて花の名前を隠語として使ってバレないように食していたし(馬は桜、猪は牡丹など)、キリスト教が弾圧されたときには一揆にまで発展している。

結局、表向きは従っておいて衝突は回避しつつ、腹の中では従ってはいない。

日本人は会議で意見を出さない、ということがよく言われるが、その根底には「まあ、どうせ上からの指示は変わらないし、とりあえず従っておいて、納得いかないところは上手いこと誤魔化そう」と端から臨む態度があるとも考えられる。

いずれにせよ、「一旦なんでもMustとして受け入れる」という態度が日本人にはあると言える。

「しかし、納得いかないところは従わない、あるいは島原・天草一揆よろしく反旗を翻せばいいじゃないか」という話になるわけだが、まったくもってその通りである。

ただ、問題は当時と比べて社会的な環境が大きく違っていて、以下のことが言える。

①監視・拘束力が圧倒的に強い
②相対的に失うものが大きい

①監視・拘束力が圧倒的に強い

例えば、「動物の肉を食べてはいけない」という御触れに対して、「言い方を変えて逃れる」という、冷静に考えたら超ガバガバな法と監視体制である。

後世につづく文化として残るほど定着しているところを見ると、どれくらいこの決まりを守った人がいるのだろうか。

都市部ならまだしも、地方の各地まで監視の目を走らせるのは当時の技術ではほぼ不可能だろうから、やはり監視の目の遠い地方部で、昨今でいう「ジビエ」の文化が色濃く残っているのだろう。

それに比べて、今の時代は圧倒的に「監視社会」である。
たとえ警察や行政の目を逃れたとしても、市民がそれを逃さない。
誰でも証拠の写真を抑えることができ、24時間いつでも通報される可能性がある。

人の移動も容易になり、今後はドローンで監視される可能性だって出てくる。

当時の「Must」と今の「Must」では、圧倒的に拘束力が違うと言えるだろう。

②相対的に失うものが大きい

「反旗を翻す」ことのリスクの大きさは、相対的に大きくなっているといえるだろう。

例えば、かつての一揆が起きるケースを考えると、「重い税に耐えかねて」などが主な理由である。

つまり、ここでなんとかしなければ、飢えて死ぬ可能性だってある
自分たちの生命と天秤にかけたときに、一揆をすることのリスクは相対的に小さい。

むしろ、自分たちの生命以上に大きいリスクなんて、一国の危機とか地球規模の損害でも相当するとは言い切れない。

それに対し、「会社の命令に従う」ということに対して反抗するリスクは「会社を追いやられる」ということになる。

「会社を追いやられること」は、これまで積み上げてきたものが多ければ多いほど、それを失うリスクが高い。
ましてや、家族がいればそのリスクはさらに大きく感じられる。

そんな中、「不正をする」のは簡単である。指示通りにすればよいだけだ。

自分の心に目をつむって、すべて指示した人の責任と思えば、何も考えずに通すことができる。

そうなるとほぼノーリスクになって、天秤は簡単に「不正をする」側が軽くなる。

Mustマインドに陥りやすいと心得るべし

以上は、決して「ただ指示に従う」という行為を肯定しているわけではない。
ただ、日本人は文化的に考えて、「~をする」という行為に対し「Must」と捉えやすい環境・構造にいるということである。

以前Googleで、国防省によるドローンの兵器活用に関するプロジェクトへの協力を表明した際、社内から多くの反対意見や退職者が出た結果、最終的に協力を取りやめた話がある。

当然、Googleにいるくらいの人達なので、次の転職先も簡単に見つかるだろうし、そもそも日本よりも圧倒的に転職文化が進んでいるという大きな違いはある。

しかし、このようなことは、少なくとも日本の「大企業」では考えられないだろう。
反対意見は社内政治的な圧力で押しつぶされ、最後まで反抗したものは人知れず会社を去っていき、大きなニュースにもならない。

それが「良いか、悪いか」という結論についてはここでは言及しないが、我々は、世界の人々と比べても、より一層「Mustマインド」に陥りやすい、ということだけは覚えておきたい。

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