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ふたりのカルチャトーリ — ショムロドフとゼイトゥッラエフ

 2020年10月1日、驚きと喜びに満ちたニュースが飛び込んできた。ロシア1部ロストフ所属のウズベキスタン代表FW、エルドル・ショムロドフの移籍が決定した。移籍先はイタリア・セリエAの古豪ジェノアCFC。移籍金は合計900万ユーロの4年契約、以降の移籍で移籍金の15%をロストフが受け取れる条項付きだという。

 彼はまだセリエAの試合には出場していないが、仮に出番が来ればウズベキスタン人選手としては15年ぶり2人目の快挙となる。ということは、すでに「先人」がいることになるのだが、その選手の名はイルヨス・ゼイトゥッラエフという。ふたりはどんな選手なのか、簡単に紹介する。なお、ジェノアのチーム情報については、日本語媒体でもある程度情報が得られるので本稿では割愛する。

生真面目な暴れ馬・ショムロドフ

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 エルドル・アザマトウール・ショムロドフ(Eldor Azamat o'g'li Shomurodov)は1995年6月29日生まれの25歳(記事執筆当時)。右利きのセンターフォワードで、爆発的なスピードと強靭なフィジカルが武器のストライカー。190cmの長身を生かし、エアバトルにも比較的強い。やや大雑把なところもあるが、かつてウイングだったことを感じさせる豪快な突破力と確かなスキルを持ち合わせており、プレーエリアも案外広い。通常は前線に張り付き、快足を飛ばしてオープンスペースを突き、勢いそのままに一気にゴールを奪う暴れ馬のようなプレースタイルの選手である。ウズベキスタン代表では4-5-1のワントップを務め、押しも押されぬ絶対的な最強エースである。
 イタリアメディアの報道で「ウズベキスタンのメッシと呼ばれている」とあったが、メッシとはプレースタイルも体躯も違うため、そのような渾名をウズベキスタンメディアが用いるためしはほぼない。明るく陽気でややもすると気まぐれでいい加減なウズベキスタン人男性らしからぬ性格の持ち主で、大スターになっても浮つくことなく鍛錬に励む口数の少ない素朴な好青年である。子供の頃に憧れたのはフェルナンド・トーレスとディディエ・ドログバ、大のチェルシーファンだった。

生い立ちからブニョドコルまで

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マシュアルのエスコートキッズだったショムロドフ少年。背後にいるのは元ブラジル代表のリヴァウド。その左は現ソグディアナ監督のウルグベク・バコエフ。対戦相手は後に所属することになるブニョドコル。

 ショムロドフはウズベキスタン最南部、アフガニスタン国境近くの人口20,000人ほどの小さな町、スルホンダリヨ州ジャルクルゴン地区の「ヌルリ・ディヨル」マハッラで生まれた。
 ショムロドフ家は多くのサッカー関係者を輩出しており、地元では有名な一族。父のアザマト氏は元サッカー選手で、地元のシュルチやアフトモビリスト(現在のスルホン)でプレーしたが怪我によりキャリアを早期に断念、その後サッカー指導者となった。 叔父のオタベク氏とイルホム氏も元サッカー選手で、前者は長くネフチで活躍し、2000年のアジアカップに選出された元ウズベキスタン代表MF。後者も怪我に苦しんだがナサフの主力FWとして印象的なプレーを見せ、同チームの通算1,000ゴール目の得点者でもある。14歳離れた兄のサンジャル氏もシュルタンでプレーした元サッカー選手で、2018年に引退した後はスルホンダリヨ州サッカー協会副会長を務めている。
 父方の祖父オッロベルディ氏も地元のコルホーズでスポーツインストラクターを務める傍ら、草サッカーチームの指導者を務めた。さらに、従兄弟(叔父オタベク氏の長男)のオイベクもサッカー選手で、現在はブニョドコルのユースチームに所属している。

2014年3月22日のウズベキスタンユースリーグ第2節、マシュアル対ブニョドコルの試合後。当時ユースチーム所属だったショムロドフを映した貴重な写真。なお、このシーズンのマシュアルは彼の大活躍でユースリーグ優勝に輝いた。

 6歳でサッカーを始めたショムロドフ。仲間と路地でボールを蹴って技能を養うと、11歳の時に当時マシュアルの育成コーチだったヴィクトル・アリョーシュニコフ氏に見いだされ、マシュアルのユースに加入。ちなみにアリョーシュニコフ氏は、若き日の実父アザマト氏を指導していた人物でもある。
 現在は資金難で活動停止中だが、当時のマシュアルは優れた育成組織を持っていた。地元を離れホームシックになることもあったが、ショムロドフ少年は優秀なコーチやチーム関係者のサポートで孤独を乗り越え技術を磨く。父から「お前はいい選手になれるかもしれないが、それより会計士の道を目指したほうがいい」と助言されたこともあったそうだが、サッカーの夢を決して諦めなかった。
 なお、トルコ1部ファティフ・カラギュムリュク所属のウズベキスタン代表オタベク・シュクロフは1歳年下で、育成組織時代から互いをよく知る間柄。さらにショムロドフ少年と同時に見出されマシュアルユースに加わった選手に、元ウズベキスタン代表のサルドル・アブドゥライモフがいる。

 デビュー戦が悪い結果に終わらなくてよかったです。両チームにとって引き分けは妥当な結果だと思います。オープンな試合でしたが得点することができませんでした。ピッチに立った時は本当に興奮しました。プレーしたのは15分だけでしたが、いい時間帯だったし、本当に得点したかったです。次の試合ではいいプレーをして、チームの勝利に貢献したいです。

エルドル・ショムロドフ(2014年4月12日の0-0で終わったマシュアル対キジルクム、彼のデビュー戦後のインタビューにて)

 18歳だった2014年にマシュアルでトップチームデビュー。その年は10試合のみの出場で得点も挙げられなかったが、将来性を買われ2015年に強豪ブニョドコルに移籍。当時ブニョドコルを率いていたセルゲイ・ルシャン監督は前年までウズベキスタンのU-19代表監督を務めており、そこで彼と面識があったことが背景にある。このルシャン氏との出会いが彼のキャリア最初の転機となる。
 同時期にフル代表デビューも果たすが、この時は所属チームではCF、代表ではウイングでプレーしていた。

ブニョドコル2年目、2016年のショムロドフを映した貴重な映像。1G1Aの活躍で勝利に貢献した。サムネイルでも姿が確認できる。 

 筆者もこの頃に初めて彼を見ている。抜群のスピードと意外と器用なボール扱いが目に止まったが、ウイングかセンターフォワードか、早くポジションを一本化しないと器用貧乏な選手になってしまうという印象を持った。能力は高くマルチロール性もあり、国内有数の若手選手だが、粗さがありスピード以外に際立った武器がないのも事実だった。
 その頃、ブニョドコルにはドストン・ハムダモフ(現パフタコル)という選手がいた。彼の1歳年下で、左利きながら逆足の右サイドを好み、正確かつ力強いキックと繊細なボールタッチからゴールもアシストも狙えるハムダモフは10代にして完成された強烈な選手だった。年代別の世界大会でもそのプレーは強豪相手に全く引けを取らないもので、2015年のアジア年間最優秀ユース選手賞に輝いた。その評価は国内にとどまらず、将来のウズベキスタンを背負って立つ、まさに今のショムロドフのようなキャリアを期待されていた。
 ショムロドフもブニョドコルで背番号10を着け、ルシャン監督の下で順調に成長していた。事実、2015年のアジア年間最優秀ユース選手賞にも同僚ザビフッロ・ウリンボエフ(後に徳島ヴォルティスに所属)と共に候補入りしていたという。しかしハムダモフという最強のライバルの後塵を拝する彼は、ひとりの「期待の若手選手」に過ぎなかった。

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ブニョドコル時代のショムロドフ。

ロシア挑戦とロストフの受難

 そんなショムロドフに次の転機が訪れる。2017年シーズン途中、ロシア1部リーグのロストフに移籍したのだ。マネジメントを委託していた「プロスポーツマネジメント」社の尽力によるところが大きいが、若く才能があり、かねてから国外志向を持つショムロドフとロシア方面に強い同社の代理人ゲルマン・トカチェンコ氏とを結びつけたのは、両者と面識のあるブニョドコルのルシャン監督だった。
 様々な国や地域から選手が集うロシア1部リーグは、ウズベキスタンとは比較にならないほどハイレベル。すでにウズベキスタン代表でも地位を築きつつあったショムロドフだが、ここではアジアの辺境国からやって来た無名の選手にすぎなかった。彼とマネジメント会社が同じで、同時期にロストフに加入したアルトゥール・ユスポフは、代理人に電話でこう言い放った。

あいつを連れてきたのは一体誰だ?何もできやしないじゃないか。

アルトゥール・ユスポフ

 加入直後の「何もできやしな」いショムロドフには苦難が待ち受けていた。実力不足に加え、FW陣はシーズン前にブハーロフとジャジューンというロシア代表選手を2人も加えたことで層が厚く、帯同メンバー入りすらできず。さらに当時のクチューク監督は5-3-1という超守備的戦術を敷き、FWにはターゲットマン的役割を求めたことから、タイプの異なる彼にチャンスは全くと言っていいほどなかった。
 しかし、3つ目の転機は意外なところにあった。ブハーロフとジャジューンが大誤算で、全く機能しなかった(シーズン通算で合計3得点)のだ。チーム事情から彼も動員せざるを得なくなり、メンバー入りの機会が少しずつ増えていく。

 最初は……よりマイルドな言い方をすれば「ただのエルドル」でした。その後10月に前十字靭帯を断裂して半年リハビリして戻ってきたら、全く別人になっていました。(中略)全く別人です。本当に驚きました。誰かと入れ替わったかというくらい。走ってパスして得点して、半年で彼は月並みの選手から質の高いストライカーに変貌しました。そして時が経つにつれて、もちろんロシア1部基準ではありますが、すっかりトップ選手になっていきました。

アルトゥール・ユスポフ

 2017年の冬、クチューク監督は19試合16得点という深刻な得点力不足を理由にシーズン途中で解任。後任にはかつてのスター選手、ヴァレリー・カルピン氏が就任。これがショムロドフにとって第4の転機となった。
 カルピン監督はFW陣のテコ入れを実施。期待外れのブハーロフとジャジューンに見切りをつけ、代わりにウィンターブレーク中に補強したシグルザルソンと、それまでサイドを務めていたイオーノフというスピード重視の2トップに切り替えた。
 ほぼ構想外だった加入当初から、いつの間にFWの駒として認知されるようになったショムロドフ。この僥倖を活かしたいところだったが、10月に前十字靭帯を断裂し長期離脱。懸命のリハビリで最終盤に戦列復帰し、めでたくロシア1部初ゴールも記録。結局1年目は18試合に出場。大半が途中出場で実働時間は短く、ほぼ「何もできやしな」かったが、貴重な試合経験を積むことはできた。彼にとってはそれなりに手応えを感じるシーズンだっただろう。

 シーズンオフにはトスノやオレンブルク、アルセナルといったライバルチームからローン移籍のオファーが届くも残留し、2年目の躍進を目指した。
しかしショムロドフの苦難は続く。翌2018-19シーズン開幕時も2トップはシグルザルソンとイオーノフ。さらに開幕直後にキャルタンソンというFWの選手を補強。レギュラー奪取どころか、さらに苦しい立場になってしまう。控え選手の位置づけは変わらず、カップ戦では未経験のウイングバックで出場することすらあった。しかしこのシーズンからほぼCF起用で固定され、後の覚醒の足がかりとなる。
 筆者はロシア入りしてからも時折ショムロドフをフォローしていた。所属チームでは準レギュラーだが母国ではスター、そんな「レベルの高くない国あるある」の選手になるものとばかり思っていた。確かにウズベキスタン目線で見ればすごい選手だが、ロシア1部リーグ目線で見れば、やはりまだ特筆すべき点のない選手だった。

突然の覚醒

 しかし世の中は何が起こるか分からないもので、シーズン中の2019年1月にタイで開催されたアジアカップがショムロドフを一変させた。前述の通りロストフではCFのサブだったが、ウズベキスタン代表の深刻なFW人材難により4-5-1のワントップのレギュラーに抜擢。その起用に見事に応え、4試合で4ゴールの大活躍。プレーに凄味と繊細が増し、着実な進化が感じられた。ウズベキスタンはあっけなくベスト8で敗退したが、得点ランク2位に入った。グループリーグの日本戦でのゴールを覚えている人も多いのではないだろうか。単騎で突入し、スピードとパワーで日本守備陣を骨抜きにしたシーンは衝撃的だった。
 その後も代表チームで好調を維持。2019年3月と6月の親善試合で計3ゴール。主に代表での活躍が評価され。2019年度のウズベキスタン年間最優秀選手賞にも輝いた。ロストフでもシグルザルソン、イオーノフ、キャルタンソンとのポジション争いに割って入り出番が増え、来季への期待を残してシーズンを終えた。

 そして迎えた2019-20シーズン、ロストフ在籍3シーズン目のショムロドフは突如として才能を開花させる。システムが4-3-3に変わり、カルピン監督の信頼を得てついにCFのレギュラーを手に入れると、開幕から覚醒。撃てば入る打ち出の小槌のごときシュート、屈強なCBすら跳ねのけるパワー、対峙する相手をぶっちぎるスピードで次々と敵陣を攻略。10試合で9ゴール1アシストの大暴れでロストフのスタートダッシュに大きく貢献し、8月の月間MVPに選出。レギュラー奪取から即座にエースに君臨し、かつてポジションを争ったシグルザルソンとキャルタンソンを控えに追いやった。
 その後はマークと疲労により大きく得点ペースこそ落とすももの、ブニョドコル時代からの「もう一つの武器」であるアシスト能力も遺憾なく発揮。さらに前線からの守備もこなすマルチタレントぶりを見せ、最終成績は28試合で11ゴール7アシスト。ジューバ、アズムーン(共にゼニト)、ソーボレフ(クルィリヤー・ソヴェートフ→スパルターク)らスター選手と並ぶロシアリーグを代表するFWと称されるまでに成長した。シーズン後にはロシアサッカー界のベストイレブンのような賞「33人の優秀選手賞(Список 33 лучших футболистов сезона)」にも選ばれ、一躍その名を世界に知らしめる飛躍のシーズンとなった。

 この活躍を受けて、ベルギーのヘンクがオファーを出したが断りを入れたとか、イングランドのチームが興味を示しているとか、シーズン中から少しずつ身辺に関する報道が出てくるようになっていた。
 しかしこれらは全て憶測で語られた三文記事のようなものであったため、9月の終わりにジェノア移籍の第一報を目にした当初は飛ばしだと思っていた。しかし具体的な移籍金の話が出始めたあたりから潮目が変わり、ジェノア側のコメントも入ってきたことにより一気に現実味を帯びるや否や、あっという間に話がまとまった。当初ロストフはオファーを断ったが、ショムロドフとチーム首脳部との間で話し合いが持たれ、一転移籍が決まった。契約を交わしたのは10月1日の深夜だったが、当時彼は自宅で眠っており、突然叩き起こされてチームの事務所に向かい、契約書にサインしたという。

 後日談だが、ドイツのシュトゥットガルトはブレイク直後から熱心にショムロドフを追い、一時は移籍金3000万ユーロでの移籍が決まりかけたことがあったという。しかし直後に新型コロナウイルスによるブンデスリーガが中断になり、この話は流れたのだという。

 なお、完全に余談だが、ブレイク前夜の2019年5月に行われたクラスノダールとのリーグ戦で、ショムロドフは相手DFのマルティノーヴィチと交錯し頭部を負傷。治療後に簡素なヘッドギアを着用しピッチに戻ったショムロドフは、痛めた頭で決勝のヘディングシュートを決めロストフの勝利に貢献。この水泳帽のような珍妙な青いヘッドギアがSNS上で小規模にバズり、ロストフがすぐさま「幸運をもたらすエルドル・キャップ」として商品化するという珍事があった。

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 2020-21シーズンは、前季に長いリーグ戦中断がありスケジュールが乱れたせいでオフ期間が異例の短さだった。コンディショニングに十分な時間が確保できなかったせいか、打って変わって今シーズンは開幕から得点が出ずファンをやきもきさせていたショムロドフ。ジェノアへの移籍が近づく中、9月24日のヨーロッパリーグ予選のマッカビ・ハイファ戦でようやくシーズン初ゴールを挙げる。
 肝心の試合には敗れてしまったが、裏に抜けたスピードと勢いを保ったまま、後方からの浮き球のパスを正確なインサイドボレーで決めた。速さと繊細さを兼ね備えた、いかにも彼らしいファインゴールを手向けにロストフ・アレーナに別れを告げた。

知られざるパイオニア・ゼイトゥッラエフ

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 そしてショムロドフが向かったイタリアには、わが国は当然ウズベキスタンですらさほど知られていない先達がいた。その名はイルヨス・ゼイトゥッラエフ。筆者はプレーを見たことがないため客観的な情報から彼の輪郭をなぞることしかできないが、まずはバイオグラフィーを見てみよう。

経歴とキャリア

イルヨス・ベキロヴィチ・ゼイトゥッラエフ(Ilyos Bekirovich Zeytullaev)は1984年7月13日、タシケント州アングレンで生まれた(ことになっている。詳細は後述)。姓名の表記は揺れがあるが、ここではウズベキスタン国内で使用されているものを採っている。

 サッカー指導者のベキル氏を父に持ち、彼はアングレンのスポーツ学校のコーチだった。ウズベキスタンを代表するFWのアレクサンドル・ゲインリフとは同郷で顔馴染であり、ふたりは共に父からサッカーを教わった。その後は13歳でアングレンからタシケントにある「オリンピック養成学校(Школа олимпийского резерва)」(ソ連時代に導入されたかつてのオリンピック選手養成所で、近隣から集められた各競技トップレベルの少年少女に対し学問とトレーニングを集中的に行う教育施設)に移った。

 オリンピック養成学校でも高い能力を見せたゼイトゥッラエフは、モスクワにあるスポルトアカデムクルプというチームが保有するサッカーアカデミーに加入する。ここで旧ソ連全域から集められた若者と研鑽に励む。かなり育成に力を入れていたようで、西ヨーロッパの有力チームとの交流もあったようである。この頃から年代別ウズベキスタン代表でも格別のプレーを見せていたという。ポジションはMFやFWと紹介されることが多いが、ユース時代はプレーメーカータイプ、イタリアでは右ウイングの選手であった。
 なお、このアカデミーの代表者はのちにロシア国内の監督を歴任し、ゼニトのスポーツディレクター在任中の2017年に急死したコンスタンチン・サルサーニヤ氏である。ロシアでは比較的有名な人物で、現役時代は無名選手だったが、かのクラースナヤ・プレースニャでのプレー経験がある。

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ユヴェントス時代のゼイトゥッラエフ(前列右から2人目)。

 ここでのプレーが目に留まり、ゼイトゥッラエフはイタリアの巨人、ユヴェントスの誘いを受ける。2001年、17歳(当時)で同僚のセルヒー・コヴァレンコとヴィクトル・ブジャンスキーと共に5年契約でユヴェントスに加入した。ユースチームで2年間プレーし、2003年には後の名将ジャン・ピエロ・ガスペリーニの下、国際的なユース大会トルネオ・ディ・ヴィアレッジョで優勝を果たした。ミランテ、ガスタルデッロ、カッサーニ、コンコら後にイタリアで活躍する選手とチームメイトだった。
 その後トップチームに加わるも、当時のイタリアサッカー協会の規則により非EU圏内のユース選手の契約年数は延長不可の3年であるとしてチームを離れざるを得なくなり、共同保有の形でセリエAのレッジーナに移籍した。

 ゼイトゥッラエフは2004-05シーズンのレッジーナでリーグ戦2試合に出場、記念すべきセリエAでプレーする最初のウズベキスタン人選手となった。奇しくも対戦相手はユヴェントスであった。しかしレッジーナでは自身の居場所を確立することはできず。下部リーグのチームのローン移籍を繰り返すことになる。この中にはガスペリーニ率いる当時セリエBのジェノアもあった。全くの偶然だが、ウズベキスタン人はジェノアに縁があるのかもしれない。

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 その後は3部相当のリーグで主にプレーし、イタリアからもウズベキスタンからも表舞台から姿を消した。代表チームではユヴェントス加入時の2001年に初キャップを刻むも、地理的な問題もありプレーの機会は多くなかった。結局インパクトを残すことができず2007年を最後に代表からも遠ざかった。2014年にクロアチアのHNKゴリツァでプレーしたのを最後に、選手としてのキャリアを終えた。現在はイタリア5部リーグのクペッロというチームで指導者を務めている。現地の女性と結婚し、活動の基盤は引き続きイタリアに置いているようだ。大きな注目を集めた偉大なパイオニアながら情報が少なく、母国でも知名度の低い少々かわいそうな人物である。

2008-09シーズン、当時3部所属のペスカーラでのゼイトゥッラエフ。貴重なプレー映像だ。

年齢に関する謎

 なお、本章の冒頭に「1984年7月13日、タシケント州アングレンで生まれた(ことになっている」と書いたが、彼の年齢は謎と疑惑に包まれている。
 現役時代は1984年生まれで通っていたが、2019年にインタビューで「年齢を2歳サバを読んでおり、実際は1982年生まれである」ことを告白したのである。かつての同僚コヴァレンコも、「ユース時代、彼の体格は他の選手より際立っていた」と語っている。それまでは同胞のゲインリフと同い年と思われていたが、そうではなかった。この件についてゲインリフが言及した情報は見つからなかった。

私の人生には大きな過ちがあり、生年が変わることになってしまいました。私はまだ幼く、何が起きているのか理解していませんでした。未成年で、まだ7-8歳の頃だったと思います。 — イルヨス・ゼイトゥッラエフ

 別の報道では、サバを読んでいたのは2歳どころではなく、本当は1979年生まれであり、不正が露見しイタリアサッカー会を追放されたとの情報もある。現在もイタリアで活動しているあたり誤報と思われるが、いずれにせよ年齢を実際より若く偽って活動していたのは事実である。数年のうちに体格や技術が大きく伸びるユース年代の選手では、大人になってからよりも年齢が持つ重要性が大きい。悲しいかな、勝利至上主義に傾倒する発展途上国ではこの手の年齢詐称が未だに行われている。ソ連でも長年にわたり組織ぐるみで偽装が行われたという。
 若手選手の年齢に関する噂はウズベキスタンにも存在する。余談になるが、2013年のU-20W杯でウズベキスタンのキャプテンを務めたアッボスベク・マフスタリエフにもかなり早くから疑惑があった。年齢に見合わぬ完成された左利きのプレーメーカーで、筆者は彼のプレーに大きな印象を受け、今でもよく覚えている。チームは準々決勝まで勝ち上がりポグバ擁するフランスに敗れたが、数年後確実にフル代表に入り、ジェパロフやアフメドフの後を継ぐ存在になると信じていた。
 彼は公称では1994年1月12日生まれだが、本当のところはどうなのか、知る由はない。なおその後は伸び悩み、現在はウズベキスタン2部リーグでプレーしている。

 なお、ゼイトゥッラエフはクリミア・タタールにルーツを持っている。またしても余談だがウズベキスタンには歴史的経緯から多種多様な民族集団が居住しており、クリミア・タタール人もその一つ。迫害が続く本国を凌ぐ大きな勢力を持っていて、サッカーにおいてもマラト・ビクマエフやセルヴェル・ジェパロフといった選手を輩出している。ジェパロフは長年代表を引っ張るスター選手だったが、肝心のウズベク語が苦手でコミュニケーションに苦労したという逸話がある。

おわりに

 まとまりのない内容になってしまったが、イタリアで戦う(戦ってきた)ふたりのウズベキスタン人選手を紹介した。ここ数日でゼイトゥッラエフ氏に再び脚光が当たり始めている。ウズベキスタン国内メディアのインタビューにも応じ、「ショムロドフは新しい物事を学んだり、読んだりするのが好きだという。オープンな性格であることが成功の秘訣だ」と語り、エールを送っている。

 2020年は冬のウルノフのウファ移籍に始まり、ジャロリッディノフのロコモチフ移籍、ヤフシボエフとウマロフのベラルーシでの活躍、シャフツョールとBATEへの移籍、カザフスタン代表MFザイヌッディノフのCSKA移籍、そしてショムロドフのジェノア移籍と中央アジア人サッカー選手の空前の移籍ラッシュに沸いた。ショムロドフ以外は20代前半とまだ若く、今後の成長が楽しみである。

 スタイルもレベルもロシアとは大きく異なるイタリア。ショムロドフはカテナチオの国でもいかんなくそのポテンシャルを発揮して、硬い守備をこじ開け、ゼイトゥッラエフ氏が残せなかった爪痕を残すことができるか。ウズベキスタンサッカー史上初めて経験する大きな夢の舞台の幕が今、上がった。

追記:ショムロドフのロストフでの背番号は「61」に決まった。「ロストフ州の行政区分コード」にちなんだもので、前所属チームに感謝の意を伝えたかったとのこと。ロシアは、日本の都道府県に相当する地方行政区分として「州、共和国、地方、連邦市、自治州、自治管区」があり、総数は85(国際社会に認知されているのは83)である。それらに通し番号が振られており、自動車のナンバープレートなどに見られる。ロストフ州に割り当てられたコードが61、ということである。

 追記2:ショムロドフは加入すぐに主力の一角となり、通用するかどうか不安な筆者をよそ目に、低迷するジェノアで奮闘している。11月30日のパルマ戦で記念すべき初ゴール(ウズベキスタン人選手のセリエA初得点。豊かなスピードと突破力はイタリアでも十分に通用することを見せつける。監督がバッラルディーニ氏に変わり、年明け最初のラツィオ戦で初アシスト、続くサッスオーロ戦では得意のヘディングで2点目(同時にウズベキスタン人選手による初のリーグ戦フル出場)、1月9日のボローニャ戦ではド派手なドリブルからゴールをお膳立て。この初物尽くしの活躍を受けて、冬の移籍市場でユヴェントスが期限付きでの獲得に動くとの報道さえ出た。さらにワンステップ上の領域に足を踏み入れつつあり、すでにウズベキスタンのレベルでは語ることすらできない存在になってきたショムロドフ。彼は一体どこまでいくのか。

参考文献

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