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未亡人日記62●沈黙の海

「沈黙」の舞台の一つだから「沈黙の海」と名付けてもいいかもしれないけれど、そうでなくて、そもそも海自体が沈黙している印象だった。

 海辺で育っていればその人だけの海のイメージがある。その海は私の知るどの海にも似ていなかった。断崖に大きな岩の塊が危うく乗っかっていて、その重力を受け止めるように海は広がり、淡いミントブルーのような淡い色合いで静まり返っている。潮騒は聞こえない。文学館の駐車場に車を停めて、私たちは車を降りた。

 ずっと遠くに平たい島が見えた。

 「あれ、軍艦島ですか?」

 と私が質問すると、ここに案内してくれた彼女も

「形がそうかもしれないけど、でも方向が違うかもしれない。待って、聞いてみるから」と、携帯に向かって地元の友人にメッセージを入れている。写真を何枚か、海を背景に撮っているとみるみるうちに海はグレーに染まり、雨粒混じりの風が吹いてきたので私たちは急いで建物の中に入った。


 私たちの他にも観客はいたが、平日の文学館は想像通りひっそりしていた。


 作家の生涯を年代順に紹介しているパネルをみてまわった。

 ちょうど崖下にひろがる海が見下ろせる小部屋に入ると大学ノートが置いてあって、パラパラとめくると日本語以外の言葉、英語やハングルなども散見される。言葉を扱う芸術が国境を越えることはなかなか難しいのだが、作家に会いに世界がここに来ているのだな、彼はクリスチャンでもあるし、海外にもよく紹介されているのだな、と思った。

「沈黙というのは神がいないということではなく、神がいるということなのよね」と彼女が魅力的な低音でつぶやいた。

 一通り見終わった後、お土産コーナーで作家の似顔絵が書いていてある四角い付箋と、未読の文庫本を2冊買い求めた。(母が元気であれば、母のためにも土産を買うところなのだが、彼女へのお土産はお祈りだけにしよう。)

「沈黙」に重要な役で出ていた俳優がここにきてサインしたという文庫本が展示してあり、店員は「彼は2回来ましたよ」と言った。仕事だけではない、というニュアンスが感じられた。彼の役はいい役だったなあと私も思い出す。

「博物館だと普通いろんなものが置いてあるんだけど、あの文学館は紙と言葉だけ出てきていた。でもそれが意外と良かった」と、車に再び乗る前だったか、乗った時だったか、彼が言った。なるほど、その通りだ。と私は感心した。言葉を紡いで世界立ち上げるというのは非力なようでいてなんと力づよいたくらみだろう。


 言葉を大事にとっておくという作業がこんなにも切ないのか、と、夫が死ぬまでの半年ぐらいから死ぬ直前まで思っていた。忘れないように、と手帳の端っこに走り書きしたりした。夫の言葉アルバム。

「君はできた人だね」

「僕はこの世の悪いものを全部持っていくから」

 自分が死にそうなのに私の手を握って

「大丈夫、大丈夫」


 まだ病を得る前に、「奥さんのどこか好きなの?」というに質問に、ちょうど客のために振るっていたフライパンの手を止めて

「『ふてえところ』って答えたのをすごくよく覚えているのよ」と、友達が私に言った。ごく最近のこと。

 私は全く覚えていなかったけれど、夫の照れ隠しと私への畏怖が混じったようなその言葉も、思い出の言葉コレクションに加えたところだった。ふてえ私は大丈夫。

 あんなにたくさん喋りたおした、ワインと一緒の楽しい食卓の夜の言葉たちは一体どこに行ってしまったんだろう。

 切ない楽しさが泡のように私の心の海に蘇る。


 言葉は持ち運びできるのがいいね。いつでも取り出せる。人にも分け与えることができる。


 今、沈黙の海は春の日差しの下で発光している。1日のうちに表情がくるくる変わるんだな。でも、まあ、人に発見されなくても海は一人で沈黙したりおしゃべりしたりしているだろうけれど。

「さっきのは軍艦島ではありませんでした」と、彼女が友人からの返答を報告する。

 車は走り出した。


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