未亡人日記65●墓場の運動会
入院しているから行動に制限があるのは当たり前で、この病院だと入院患者が階下のコンビニに行けるのは朝の7時から8時までと、夕方5時から消灯まで。外部から来る人との接触を避けるためなので、多分これはコロナ以前はなかった規則なんじゃないだろうか。
普通の人の活動時間には、コンビニに行くことは禁じられている。
そう思ったとき、私の中に流れた風景は、やや「ゲゲゲの鬼太郎」的、朝は寝床でぐうぐう寝て、夜は墓場で運動会するお揃いのパジャマたちの姿。
皆でお揃いのしましまのパジャマを着て、車椅子をボランティアに押してもらっているおじさん、化粧っ気皆無で髪の毛がとんでもない方向に向いているおばさん。そんな人たちががフラフラと、午後5時のセブンイレブンに飲み込まれていく。行けるところはここしかない。
私も点滴のガラガラを支柱に、よろよろと移動している。
おばけにゃ学校も試験もなんにもない。昼間はベッドでひっそり寝てるだけだ。
入院何日目だったか忘れてしまったけれど、それは4月の朝だった。で、その日は母の誕生日だった。入院しているからお祝いもしてやれないので、私はセブンイレブンの隣の売店で買ったはがきに、バースデーケーキを描き、お誕生日カードとして母に送った。(郵便ポストは病院の敷地をわずかに出たところにあるので、そこまでどうやっていったんだろう? 記憶がないんだけど、看護師さんに頼んだのだろうか?)
3色ボールペンを使って描くバースデーケーキとろうそく。84歳おめでとう。はがきを描き終わってから、がらんとした吹き抜けの高い天井からはるか下に位置するテーブルで、セブンイレブンのコーヒーを飲みながら老人ホームにいる母に電話した。
朝7時30分。
このがらんとした感じは、どこか香港のホテルを思い出させる。高いところにかけてある時計の針が進む。なんかこんなシーン、ウォン・カーウァイの映画にあったぞ。レスリー・チャンが言うんだ。
「1960年4月16日3時1分、君は僕といた。この1分を忘れない」
★★
私の窓際のベッドからは飛行機が通るのがよく見えた。
5年前の7月は飛行機に乗ってパリに行った。子ども達も一緒に。そんな未来が再び私に訪れることはあるのだろうか? とベッドの上で訝しく思っている。
今、私は見上げている飛行機に乗っているのだと想像してみる。
「飛行機がどこからきたかわかるアプリがあるんですよ」と若い看護師が教えてくれたので、そのアプリをダウンロードしてみた。
北から来た飛行機は病院の上を通りながら羽田の方向へ向かっていく。
彼女は前髪に赤い色をハイライト効果みたいに入れている。物腰はごく普通なので、元ヤンとかではないだろう、(バンドギャル?)と思ったが、「その色、いいですね」と褒めると彼女は嬉しそうに笑った。笑顔がまぶしい。若いっていいな、と彼女の笑顔を見て思う。
看護師という専門職を目指してしっかり勉強して、仕事をして、私のようなおばさんの入院がん患者の世話をしてくれて、雑談もしてくれて。
若い時の私には、そんなしっかりした未来設計はなかった、やる気と自分の幸運を向こうみずな担保にして、根拠のない自信には満ち溢れて、地道になりたいものを目指すのではなく、何かの幸運で自分の願いが全部叶うような錯覚をしていた10代終わりから20代。
私はやり直すとしたらどこからやり直すんだろう。堅実な人生設計? 結婚?(死別しない男と) 国家資格を取得して食いっぱぐれない仕事をする? 50代のおばさんにはトゥーレイトだな。飛行機に乗って外国に行くことさえできるか怪しい。
「私たちはあの飛行機を見てるけど、あの飛行機からはこちらは見えないんですねえ」と、おばさんは感傷的に言った。
若い看護婦は笑顔で、何も言わなかった。
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