どこまで理解しているのかわからない『ことば』を繋ぐことの尊さ
「ピンクのお花が咲いているよ」
2歳の娘がそう言いながら、指を指す。
小さな指の先には、ふっくらと膨らんだ、梅の蕾があった。
「それは梅っていう花やねん」
「ふうん。うめ」
「まだ咲いてないねんな。つぼみやで」
「ふうん。つぼみ」
「つぼみってわかるかな?」
「しらない」
「はらぺこあおむしでいうところの、さなぎみたいな感じ」
「ちょうちょが出てくる?」
「うーん、うめはチョウチョにならへんな。つぼみがもうちょっとしたら、かわいい梅の花になるねん」
「たのしみね~」
どこまで理解しているのかわからない『ことば』を、ひとつひとつ、ていねいに紡いでいく。
今、少しむずかしい言葉を使ってしまったかもしれない……とか
これは、どこから説明したらいいんだろう……とか。
『しっている単語』の見本帳から、ひとつひとつ、ていねいに選んで、
ひとつひとつ、ていねいに紡いでいく。
革職人が、ひと針ひと針、ていねいに革を塗っているような
画家が、ひと筆ひと筆、ていねいに絵を描いているような
気が遠くなる瞬間が多いのだけれど。
まいにち、少しずつ言葉を理解しているので、
まいにち、少しずつ会話の辻褄が合うようになった。
このペースだと、来年の今頃は、
しらないとか、わからないとか、
そういった言葉の登場回数が減って、
10分かけて説明していたことも、
5分くらいで理解してくれそう。
子どもの成長が嬉しい半面、
どこまで理解しているのかわからない『ことば』を繋ぐことの尊さに、
初恋みたいに、嬉しかったり切なかったりする。
いや、もしかして、それ以上に胸がキュッと締め付けられるのかもしれない。
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