断捨離=スッキリ、ではなかった
大掃除の季節ですね。
みなさんは大掃除を終えましたか。大掃除をすませ、断捨離もして、新年をむかえるにあたり気分スッキリ!清々しい!というところでしょうか。
わたしも大掃除を終えました。断捨離もしました!
したんだけどな。
したんですよ、断捨離。でも、スッキリどころか、モヤモヤが滓のようにたまってしまった。おかしいな。ブツは捨てたのに。
断捨離=スッキリ、とはいかなかった。
♢
そのブツとは?
ブツの定位置は、わたしの部屋のクローゼットの最上段の奥。そこに、25年以上も開けたことのない大きな段ボールが1つ。これがブツです。結婚後しばらくのあいだ、実家に置いたままになっていたもの。
つまり、段ボールのなかには、わたしの嫁入り道具リストから外されたモノたちが入っているわけです。
実家に置きっぱなしになっていた段ボールなので、実は、その存在すらも忘れていたんです。
ところが、結婚して15年ほど経ったころでしょうか。実家の引っ越しがあり、わたしの弟が荷物を整理していると、この段ボールが押し入れの奥のほうから出てきたんだとか。弟が開けてみると、どうやらわたしの持ち物だということで、わたしの家に送られてきたんです。
「この荷物、お姉ちゃんのみたいだから、とりあえず送るよ。いらなければそっちで処分して」
弟の短い手紙と一緒に、この段ボールは送られてきました。
当時のわたしは、仕事、育児、仕事、家事、仕事、育児、家事、仕事・・・のループを、来る日も来る日も必死にこなしていました。存在すら忘れていた、そんな大きな段ボールが送られてきたところで、片付ける時間もエネルギーも余裕もなかった。
大きくてかさばるので、とりあえずクローゼットの1番奥に押し込んだわけです。開けて中身を確かめることもなく。
そして、その存在をすっかり忘れていた。今年の夏までは。日常生活が忙しいと、日常に関係ないものなんて記憶にまったく残りません。
♢
今年の夏、わたしは大切な友人の1人とランチをしました。彼女とわたしは同い年。彼女は10年以上ガンの治療をしています。不安定ながらも、今はなんとか日常生活を送れるくらいの状態ではあるけれど、寛解(かんかい)までには到達していません。
自分の病状をよく分かっている彼女は、いつ自分が亡くなってもいいように、今の生活に不要なものはすべて、とっくに処分したそうなんです。
「だってこのままいけば、主人よりも、子どもたちよりも、わたしのほうが早くいなくなるわけでしょ。わたしの遺品整理をしているときに、残された家族に嫌な気もちになってもらいたくないのよね。だから、家族が見て嫌な気もちになるものは全部捨てたんだよね。ガンになってから」
複雑な思いを抱えながら、それでも深刻にならないように明るくそう言う彼女。そんな彼女の言葉の1つ1つに、わたしはいつもハッとさせられます。大切な、そして大好きな友達です。
もう50も過ぎたし、わたしだって、いつどこでどうなるか分からない。「自分が死ぬのはもっと先よ」だなんて、能天気に言っていられない年齢になりました。ここ数年、わたしの周囲でも50代で亡くなった知り合いが何人もいます。わたしの母も50代で亡くなったし。
そっか、そうだよね。自分にあてはめてみたら、そうだわ。自分が亡くなった後、最後の最後に、家族に嫌な思いをしてほしくないわ、わたしも。
そう思ったわたしは彼女に言いました。
「今年のミッション、1つ増やすわ。今年中に、家族が見て嫌な気もちになるものは捨てるわ!断捨離する!!」
「おぉー、いいねいいね!そうしなよ。断捨離するとね、めっちゃスッキリするよ」
♢
そういう経緯があり、冒頭の段ボールを開けたんです。なにが入っているのか、まったく覚えていなかったもので。
25年以上も開けたことのない大きな段ボール。開けるときには、タイムカプセルを開けるときのような、ワクワク感すらありました。その証拠に、開ける瞬間に「ジャジャーン!」という効果音を自分でつけたくらいです。
でも。
開けるんじゃなかった・・・見るんじゃなかった・・・
それはパンドラの箱だったのです。
さて、大きな段ボールのなかには何が?
それは、オットと結婚する前につき合っていた彼氏からの、山のようなラブレターだったんです。
その彼とは、東京/大阪の遠距離恋愛でした。3年くらいつき合ったかな。当時は、今みたいにスマホもなければガラケーもない。遠距離恋愛での連絡手段といえば、固定電話と手紙でした。お互いに1人暮らしだったので、固定電話で長電話をすると、電話代がとんでもないことになる。そういうわけで、週に何度も書く手紙がメインのやりとりでした。
段ボールのなかの大量の手紙。これだけあるということは、わたしもきっと同じくらいの量の手紙を彼に書いていたんでしょう。
懐かしい彼の筆跡。
ちょっと右肩上がりの文字や、ひらがなを書くときのクセ、漢字の「さんずい」のバランスの悪さを目にして、あぁそういえばそうだったよなぁ、なんて思い出して、口元がほころびます。
彼の手紙に書いてある具体的なエピソードを読みながら、そのときに流れていたBGMまで思い出したりして。あのとき、彼はこんなふうに言って怒ってたよね、あのとき、あんな会話もしたな、なんてことまで。
あっという間にタイムトリップですよ。これはヤバい。
でもこの大量のラブレターは、わたしが死んだあとに家族(特にオット)が見たら、間違いなく嫌な気もちになるもの、だよね?オットとわたし、どっちが先に亡くなるかなんて分からないけど、このまま手紙を残しておいたら、オットは確実に嫌な気もちになる。そんな置き土産は残したくない。
そう思って、1通1通きちんと心に刻みこむように読み、読み終えたあとは、心を鬼にして、ビリビリと細かく細かく破りました。あの頃の思い出も丸ごとハラハラと消えてなくなってしまうような、そんな心境になりました。
なぜか分からないけれど、破りながら、涙が出てきて止まらなくなっちゃった。どうしてかな。どうして涙が出ちゃうんだろう。ずーっと忘れていた薄情者なのにね。泣く資格なんてないはずなのに。
♢
25年以上も、クローゼットの片隅にしまい込まれていた、存在すら認識してもらえていなかった大量のラブレター。長いあいだ、存在感を完全に消していたのにね。
パンドラの箱を開けて、ブツを処分したのに。ブツを処分した引き換えに、そのパンドラの箱はわたしの心のなかにドン!と居座ってしまったかのような、そんな気もちになっています。これ、なにかの呪い?
断捨離したのに。変だな、スッキリしない。
断捨離=スッキリ、ではなかったことに、少々戸惑っている年末です。
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