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ピカドン

  明治40年(1907年)、広島の石内という田舎の農家で、私の父方の祖父、徳雄が生まれた。徳雄は私生児だった。農家の中でも身分制度があったのか、かなわぬ恋の果てに生まれた不幸な子だった。
 徳雄は生まれるとすぐに中岡の家に養子に出された。最近女の子を生んで、乳が出る女房がいたので、都合がよかった。子供はその女の子一人で、男の子がいないのも好都合であった。
 だがおしつけられたほうはたまらない。食い扶持が一人分増えることになる。徳雄は小さい頃からこき使われたが、学校にだけはいかせてくれた。ただし、毎日何キロもある道を往復していかなければならなかった。
 突然義父が死んだ。結核だった。その日から徳雄が家計をやりくりする使命を負わされた。農ではやっていけなかった。そこで一家は町に出て、徳雄は国鉄の小間使いとして採用された。徳雄14歳の時である。
 国鉄での彼の働きぶりが認められ、試験にも合格し、正式な職員となることができたのは、それから5年後。少しは暮らし向きもよくなっていった。
 徴兵検査の歳になると、彼は丙種合格であった。痔持ちであったため、軍人としての評価は低かった。おかげで、戦場に行かずにすんだ。ただこのことが生涯のコンプレックスとなった。
 そのまた5年後、姉がこれもまた結核で若い命を落とすことになった。母親との二人暮らしとなった。
 嫁をもらったのは、それから2年たってからである。27歳。相手は一回りも違う16歳の何もできない少女であった。体も弱かったため、野良仕事の手伝いもろくにしてこなかったお嬢様であった。親戚筋からの紹介で、その家にすれば早く嫁にやって厄介払いをしたかったようだ。
 若い嫁は私の父を皮切りにに弟妹と3人の母親となった。父が生まれた時は、偶然にもあの日露戦争日本海海戦の英雄、東郷平八郎元帥が亡くなった日であったため、これは東郷元帥の生まれ変わりだ、といって徳雄は大喜びであった。
 しかし子育てとなると、やっぱり若い妻が心もとなかったのか、徳雄は子供たちの教育も担当しており、カネのことから家事に至るまで目を通した。

 徳雄38歳。私の父11歳。昭和20年(1945年)8月6日。午前8時15分。多くの人間の運命を狂わせた、世界史史上最大の事件のその時、徳雄は広島駅にいた。
 その瞬間のことを、彼は誰にも話すことはなかったが、電車に乗っていたらしい。幸いにも傷ひとつ負わずにすんだが、家に帰ってみると、たくさんのガラスの破片、電車の窓であろう、がポケットの中に気づかずに入っていた。
 一方父は市内からは離れた所におり、被害はなかったが、大きなキノコ雲を見た。そして黒い雨にうたれた。
 夕方になると、やけどをしたボロボロの服を着た集団が東のほう(広島市内のほう)から集団でやってくるのを見たと徳雄の若い妻、つまりは私の祖母が晩年私に語った。
 徳雄は原爆手帳を発行され、父も50を超えてから、証人を見つけて、原爆手帳を受け取ることができた。いまだ黒い雨に打たれながら証人がみつからないばかりに手帳を発行されずに訴訟を起こしている人たちがいるのを、TVニュースで見た記憶がある人もいるかもしれない。父はそう考えると幸運だった。
 徳雄は国鉄を定年退職すると、不動産事業を始めた。最初個人で経営していたが、埒があかなかったのか、会社勤めをすることにした。
 父は高校を卒業すると福岡で交通公社に入社し、夜学の大学を卒業した。
 昭和56年(1981年)祖父は突然亡くなった。直接の死因は解剖をしなかったので、不明である。カルテには精神性ショックとある。仕事でいろいろストレスがたまってはいたようである。享年74歳。当時の平均寿命ではあった。
 祖母もその10年後、C型肝炎で死亡した。そのまた10年ほど経って父もC型肝炎で死去した。晩年、海外旅行を妻、つまりは私の母と繰り返していたが、酒も飲めないのに肝硬変となり、69歳という若さで亡くなった。
 広島原爆資料館の原爆死没者慰霊碑の中にある死没者名簿に二人とも名前が刻まれている。
 
 
 
 
 

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