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【沖縄戦:1945年5月6日】「沖縄作戦ノ見透ハ明白。多クノ期待ヲカクルコト自体無理」─すでに沖縄戦への関心を失っていた大本営が沖縄戦を見切る

6日の戦況

 第二防衛線右翼の歩兵第89連隊および同第22連隊正面は、米軍の動きが活発ではなく、攻勢失敗後の軍の配備立て直しに幸いした。
 前田高地はこの日、完全に米軍に制圧された。守備隊の独立歩兵第12大隊(賀谷大隊)や歩兵第32連隊第2大隊(志村大隊)は反撃を続けたが、同高地南側の洞窟に封じ込められた。前田洞窟では武器弾薬も尽きたのか、守備隊は米軍に石や排泄物まで投げつけ抵抗を続けたといわれる。
 前田集落南側地区では、歩兵第32連隊主力、独立歩兵第11大隊、第62師団輜重隊、独立臼砲第1連隊、左側支隊などが入り乱れながら米軍との接近戦が行なわれた。各部隊間の通信連絡は困難で戦線の整理は容易に進まなかった。
 志村大隊の兵士だった外間守善氏は次のように回想している。

 米軍は為朝岩攻撃に成功し、ついに占領した。第三十二連隊の損害は甚大で、戦力は半減した。
 前田周辺の攻撃に失敗した第三十二連隊は、五日夜、戦線を整理し、主力を勝山-経塚において防衛戦線を整えた。前田高地で米軍に包囲され、孤立した志村大隊、賀谷大隊の残存兵は中腹の南側洞窟陣地に立てこもったが、馬乗りをした米兵が爆雷や手榴弾を投げこんでくるので壕内は生き地獄だった。米軍は前田高地のあらゆる洞窟や壕を爆破し、閉塞していった。
  [略]
 六日には前田高地は完全に米軍に制圧された。志村大隊、賀谷大隊は別々の洞窟に閉じ込められる状況となり、朝七時から夕方六時頃まで執拗な小銃、手榴弾、爆雷攻撃を受けた。武器弾薬も底をつき、戦える兵士も激減した志村大隊は、昼間はじっと耐えるしかなかった。そして、夜になると負傷者の手当て、生存者の確認、索敵斥候を出し、洞窟を出て米軍の幕舎を襲った。この日、米軍は、仲間、前田高地の戦闘終結を宣言した。

(外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』角川ソフィア文庫)

 米軍戦史には次のように記されている。

 浦添丘陵の戦闘は、五月四日になって、いっそう激烈をきわめた。クーニー中隊の第一大隊は、洞窟──トンネル──トーチカの連鎖陣地に、一大破壊攻撃を試みて成功し、そこに陣地を築いて、日本軍の反撃にそなえたのである。
 この日の総攻撃で、第三〇七連隊が倒した日本軍の数は、およそ六百名。翌五日から反対側の丘腹は徐々に占領され、洞窟は破壊されるか封鎖されるかした。
 しかし、この日の夜から六日の真夜中にかけて、日本軍は丘陵奪回のため、数度にわたって反撃してきた。そのうちの一つはとくに激しく、第三〇七連隊の第三大隊に奇襲してきたが、白兵戦で二百五十名の戦死者を出した末、撃退されたのである。
 五月六日の夜は明けた。第三〇七連隊の全大隊が、いまや一八七高地に南側から隊伍をととのえて進撃していった。浦添丘陵の戦闘はついに終わったのである。

(米陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

 安波茶付近でも激戦となったが、同地の独立歩兵第23大隊を基幹隊とする守備隊は米軍の南進を阻止した。この日、独立歩兵第21大隊西林大隊長が病気により後送されたため、歩兵第64旅団長は同大隊を独立歩兵第23大隊長の指揮下とした。
 沢岻北西800メートル付近の50メートル閉鎖曲線高地(具体的な場所がよくわからないが、現在の浦添市経塚の高地帯のことだろうか)は、この日10時ごろから戦車を伴う強力な米軍の攻撃をうけたが、守備隊は迫撃砲の支援により戦車3両を擱坐させ、午後には米軍を撃退した。
 安波茶、沢岻方面の戦況を懸念した軍は、この日独立混成第44旅団から第2歩兵隊第3大隊(尾崎大隊)を抽出し、第62師団に配属した。その上で尾崎大隊は独立歩兵第15大隊長に配属され、沢岻、末吉(沢岻南)、大名(同南東)地区に配備された。
 歩兵第63旅団長は、4月30日以来独立歩兵第12大隊に配属されて前田地区で奮戦していた独立歩兵第273大隊の損害が大きいため、この日同大隊を平良町付近に後退させ旅団予備とし、部隊を再編成させた。

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負傷兵に輸血をする兵士 45年5月6日撮影:沖縄県公文書館【写真番号97-13-4】

軍の戦線整理

 軍は総攻撃の失敗をうけ、今後の戦闘において、首里司令部を中心に円形複郭陣地として持久戦を展開するべきか、東西両海岸を両端とする現戦線をおおむね維持して持久戦をつづけるべきか検討した結果、首里を中心とする複郭陣地は持久困難であり、米軍に行動の自由を与え、その継戦石の破砕は期待し得ないとし、現戦線を防衛線としてあくまで持久戦を展開し米軍に出血を強要することとした。
 この際、軍は今後の戦況の見通しとして、現戦線による軍の組織的戦闘は今後二週間は確実であると判断し、この間に航空攻撃により米艦船に痛撃を与え、米軍の戦意を削ぐ必要があると判断した。
 軍が維持する現戦線は東海岸方面から西海岸方面へ、運玉森-桃原(運玉森北側)-幸地南500メートルの高地-前田南1キロの集落(勝山)-経塚-沢岻北方50高地-内間北側-安謝川河口のラインであり、本ラインを第一線として、概要、次のように各兵団を再配備した。

第24師団 
 おおむね首里北東の大名から前田西端以東の東海岸までを担当する。隷下の各隊は、右地区隊(歩兵第89連隊)が運玉森から桃原を防衛、中地区隊(歩兵第22連隊)が幸地南500メートルの高地から146高地を防衛、左地区隊(歩兵第32連隊)が左側支隊を新たに指揮下に入れ、前田南集落(勝山)北端から経塚付近を防衛する。その他、戦車第27連隊は石嶺高地を保持し、中・左地区隊の戦闘に協力する。

第62師団
 おおむね松川(首里西側)-57.3高地(松川北800メートル)-末吉のライン以東から第24師団の担当地区以西のあいだ、および首里地区の防衛を担う。また隷下の独立第2大隊および特設第6連隊は独立混成第44旅団に配属替えする。

独立混成第44旅団
 第62師団との戦闘地境である松川-57.3高地(松川北800メートル)-末吉のライン以西を担当する。首里は含まない。隷下の各隊は、右地区隊(独立混成第15連隊、独立第2大隊、独立速射砲第7大隊)が真嘉比から天久にわたる地域を防衛し、左地区隊(特設第6連隊、独立歩兵第23大隊第5中隊)が泊から那覇正面にわたる地域を防衛する。その他、旅団砲兵隊や旅団工兵隊は各地区隊の戦闘に協力する。

軍砲兵隊
 野戦重砲兵第1連隊(識名)、野戦重砲兵第23連隊(石嶺)、独立重砲兵第100大隊(与那原南西3キロ付近)の軍砲兵隊は、配置はほぼ現在地のままであるが、これまでの戦闘と総攻撃により弾薬をほとんど使い果たしたため、以降の使用弾薬を1日1門10発程度と極端に制限せざるをえなくなった。

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5月6日における第32軍の陣地配備計画要図:上掲戦史叢書

沖縄戦を見切った大本営

 第32軍の総攻撃失敗を把握した大本営であるが、すでにこのころには大本営は沖縄戦への関心を失っていた。それというのも、ソ連の対日参戦が現実のものとなっており、大本営は「大陸用兵問題」といわれる大陸戦線の各兵団の再配備に熱中しており、また本土決戦準備にかかりきりであった。
 この日の大本営発表は、航空特攻の成果を大々的に伝えるものの、地上戦については触れなかった。また大本営陸軍部宮崎周一作戦部長はこの日、第32軍の総攻撃失敗の報に接し、「大体ノ見透ハ如此モノナルベシト予察セラレタリ」と日誌に記している。すでに軍中央は沖縄戦への関心を失っており、総攻撃そのものにも何も期待していなかったことがわかる。
 また、この日の大本営の「機密戦争日誌」には次のようにある。

機密戦争日誌 其十 参謀本部第二十班(第十五課)
昭和20年5月6日
 日曜
一、五月四日以来再興セル沖縄方面ノ海軍ノ総反撃ハ遂ニ六日ニ至リ大損害ヲ受ケテ失敗ト決定ス。 コレニテ大体沖縄作戦ノ見透ハ明白トナル。コレニ多クノ期待ヲカクルコト自体無理一旦上陸ヲ許サバ之ヲ撃攘ハ殆ント不可能 洋上撃滅思想ヘノ徹底ニヨリ不可能ヲ可能ナラシメサルヘカラズ コレ本土決戦ヘノ覚悟ナリ
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 「コレニテ大体沖縄作戦ノ見透ハ明白トナル。コレニ多クノ期待ヲカクルコト自体無理」「大体ノ見透ハ如此モノナルベシト予察セラレタリ」──すでに沖縄戦への関心を失っていた大本営はこの日、沖縄戦を事実上見切ったといってもいいのではないだろうか。
 しかし牛島司令官は軍中央の訓示を持ち出して住民を巻き込みながら徹底的に持久戦を展開することを決意し、実際にこれ以降も壮絶な戦闘はつづく。むしろ沖縄戦での犠牲・被害はこれから拡大していくといってもいい。沖縄戦への関心を失い、見切ったとき、軍中央の頭の片隅にでも住民など非戦闘員の身の処し方への配慮や指示の必要性が思い浮かぶことはなかったのだろうか。

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キングスヒルを攻略する米軍 45年5月6日撮影:沖縄県公文書館【写真番号84-37-2】

沖縄県後方指導挺身隊と沖縄県庁のその後

 沖縄県は4月27日に開催した市町村長会議で決定した県民の士気の鼓舞や食糧確保のため、島田知事を総帥とする沖縄県後方指導挺身隊を5月1日に編成したことは既に述べた通りだが、この日、豊見城村長堂に挺身隊本部を設置した。沖縄県庁としての機能はここに停止し、後方指導挺身隊としての戦場行政が主な業務となった。
 島田知事以下沖縄県庁はこれまでに那覇から首里、そして真地の県庁壕(シッポウジヌガマ)を転々としたが、沖縄戦最末期の6月には糸満市伊敷の轟の壕へ移動した。轟の壕では日本兵による追い出しなどにもあったが、島田知事がこれをはねつけたといわれている。島田知事は6月15日、轟の壕から摩文仁司令部へ移動するさなかに行方不明となっているので、轟の壕が最後の沖縄県庁だったといえる。
 轟の壕にはその後も県職員などが残ったが、日本兵は住民を壕の西側の環境の悪い湿地帯に追いやり、自分たちは東側の乾燥地帯に陣取るなど、傍若無人に振る舞った。また住民から食糧を強奪し、幼児を殺害するなど無法の限りを尽くしたといわれている。

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キャプションには「シュガーローフヒルへ向けて稜線を越える」とある このころはまだシュガーローフヒルに米軍は達しておらずキャプションや撮影日時の誤りとも考えられるが、前田高地は攻略しているので、シュガーローフヒルへ向けて前田高地の稜線を越えるという意味ならば理解できる 45年5月6日撮影:沖縄県公文書館【海兵隊員写真番号72-30-4】

国民の状況

 陸軍省軍務課内政班長竹下正彦中佐はこの日、国内情勢について参謀次長に次のように報告した。

一 国民関心の重点は沖縄作戦の推移にある。
二 ソ連の動向についてはよく知らない。ソ連に対しては、大きな犠牲を払っても妥協を望むものであるが、反面、軍が親ソ反英米の策を採るのは赤化思想と非難するむきもある。
三 国民義勇隊については官制・政治臭が強くなることを心配する者が多い。
四 強制疎開とともに東京死守の態度を明瞭に表現する必要がある。動揺・退避の空気が一部に濃厚。

(戦史叢書『大本営陸軍部』〈10〉)

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負傷兵を搬送する兵士たち 45年5月6日撮影:沖縄県公文書館【写真番号98-04-4】

新聞報道より

 この日の大阪朝日新聞には、次のような記事が掲載されている。

沖縄の基地化を強行
 敵空軍の推進に狂奔

【前線航空基地にて原田、日高、小島三特派員四日発】沖縄戦局はわが空海陸の息もつかせぬ猛攻により敵上陸軍に与へた出血は実に二万に達するにもかかはらず、敵の沖縄進出の意図があくまで航空基地の推進にあり、中、北両飛行場を敵の使用に委ねざるを得なくなったけふ、敵の補給路遮断の道は依然わが航空特攻隊にまたねばならぬ、四日現在迄に得た現地の情報によるも首里、那覇両市方面に南下する敵上陸主兵力も中、北両飛行場守備部隊に兵力の二分の一近くを残す着実ぶりを示し、敵が如何に航空基地保有に留意しつつあるかを物語っている、更に首里附近に侵出せる敵第一線部隊も屋富祖、幸地、小那覇を結ぶ線を今一歩侵出させ中、北両飛行場の補充的小飛行場をこの附近に設営せんとする意図を示している、更に伊江島の中、西両飛行場を機械力にものをいはせて既に去年二十八日現在までに滑走路を復旧、ここに本島中、北両飛行場の不足を補ひつつ全面的に本島の航空基地化を企図、これが実現を急いでいる
  [略]

(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)

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読谷飛行場で整備される米軍機 45年7月撮影:沖縄県公文書館【写真番号:15-38-2】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・戦史叢書『大本営陸軍部』〈10〉
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第9号(琉球新報2005年5月5日)

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前線へ進む第1海兵師団第7連隊第2大隊 兵士は迫撃砲と大砲による砲撃で足留めを食らっている 45年5月6日撮影:沖縄県公文書館【写真番号89-21-1】